数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年にアクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。
311年ガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認された。その後もユリアヌス帝などの抑圧を受けたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止された。しかしローマ帝国の上流階層の古典信仰はその後も生き残った。例えば415年になってキリスト教司教の煽動によるキリスト教徒の暴徒がアレクサンドリアのムセイオンを略奪破壊し、ヒュパティアのような優れた学者を虐殺するという非道をおかしている。
初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を祝日とするようになった。321年にコンスタンティヌス帝は日曜日強制休業令を強制した。このとき反対者への弾圧により死者が出たともいわれている。日曜日の安息日化は364年のラオディキア教会会議により正式に決定され、現在に至っている。
古代の神学の中心は主に東方のギリシア教父によるものであった。アレクサンドリアのオリゲネス、アタナシウス、カッパドキアの三教父のバシリウス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスなどである。やがて西方のラテン教父のアウグスティヌスなども影響を与えている。
こういった神学の発展にともない教理論争が激しくなる。そのため、しばしば地方教会会議や普遍公会議が行われるようになった。
2世紀以後、マニ教の流入や、モンタノス派やアリウス派が起こり、教会内での意見の統一が難しくなった。とくに4世紀以降、キリストの位置付けをめぐる一連の神学論争が教会の分裂を招くまでになった。キリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシウス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに加熱していった。
キリスト教の派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア公会議(325年)を開いた。なお、ローマ皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスは公会議の時点はキリスト教徒ではなかった(洗礼を受けたのは死の直前)。あくまでもローマ帝国の求心力低下の課題解決に図るためキリスト教の勢力を利用することがコンスタンティヌスの意図であった。
このニカイア公会議の結果、アリウス派は異端とされ追放された。さらに皇帝テオドシウス2世により開かれたエフェソス公会議(431年)では、ネストリウス派も異端とされ追放された。
また、単性論と両性論の争いでは、一時は単性論が有利な様相を呈したが、最終的に皇帝マルキアヌスが開いたカルケドン公会議(451年)にて単性論が異端とされた。しかし、シリアやエジプトを中心に単性論を支持する教会が多くあったため、各教会で対立司教が立つほどの分裂が生じた。
このように異端説を切り捨てることにより、正統派のキリスト教は自らの教義を洗練させ確立していった。言い換えると排除するべき異端の対比として、この時代に「正統」信仰が誕生したといえよう。
使徒パウロの活動拠点のアンティオキア教会では異邦人への柔軟な文化適合を重視していた。その影響で、その後のローマ帝国と辺境各地への布教でも、現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的再解釈されて積極的に利用された。有名な例では、ローマ教会ではじめられたミトラ教由来の冬至の祭礼クリスマスがある。
さらに多神教世界に布教する際、キリスト教は他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてミネルヴァ・イシスなどがある。時には異教の神像をそのまま流用することもあった。その例として、イシスとオシリスの像をマリアとイエスの聖母子像へ転用したことなどが指摘される。
禁令解除以後は弾圧の際の殉教者を積極的に称揚することが行われ、諸聖人の記念日や聖像(イコン)が使用されるようになった。
異教の多神教的世界観に慣れた古代人にはキリスト教の一神教的世界観を理解することが困難であるが、これらの一種多神教的な事物を内部に取り込むことは彼らへの布教を推進させる力となった。
また東ローマ帝国において、キリスト教の布教は帝国に親和的な環境を作ることにつながるため、東ローマ帝国皇帝は積極的に他民族への布教を後援した。
公会議による教義の確認は正統教義の確立を促したが、その一方で異端とされた教説の保持者が教会から分離することにもつながった。
異端とされた説には、消えていったものも多かったが、正統派の勢力が及んでいない地域で活路を見出すものや、自派の勢力の強いところで独自の発展を遂げたものもある。アリウス派は、最終的には消滅したものの、一時はゲルマニアを中心に布教し、それなりの期間にわたり勢力を保った。
現在残っているそのような教派を東方諸教会という。