キリスト教の歴史
近所セレブを即検索
永久無料セレブマップ

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


エルサレム教会の没落と福音書の出現

ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。

ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。

新約聖書学者の多くは共観福音書ヨハネによる福音書ヨハネの黙示録、公同書簡の成立をユダヤ戦争以降に見ているが、これには異論もある。


帝国内部への信仰拡散と迫害殉教

さらにキリスト教がディアスポラを通じてローマ帝国内に広まっていくと、ローマ帝国政府当局により迫害を受け、多くの殉教者を出した。これにはローマ帝国が元々多神教国家であった事や東方の影響によって発生した皇帝崇拝にキリスト教徒が従わなかったことなどいくつかの理由がある。特にネロドミティアヌスデキウスディオクレティアヌスといった皇帝のもとで迫害が行われたとされるが、ディオクレティアヌスによる迫害を除いてあまり大規模なものではなく、そのディオクレティアヌスによる迫害でさえそれほど大規模であったかは疑問とされる。迫害事例の地理的広がりから、2世紀末には、ローマ帝国全域に教会は組織を広げていたと推測される。また3世紀にはエジプトから砂漠での隠修修道が広まり、独居あるいは集団で荒野で修道生活を行う者(修道者)が多数出た。

一世紀後半から二世紀までの教会内文献(使徒的教父文書)などからの推測によると、この頃、エルサレムのヘブライスト(ユダヤ系)教会と、シリアエジプトのヘレニスト(ギリシア系)教会とで異なる文化圏の教会が形成されていたが、使徒たちがそれぞれの文化圏を認めていた。カトリック教会によれば、ヘブライスト教会は使徒(司教)と長老(司祭)、ヘレニスト教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型(ヒエラルキ)が異なった特徴を持っており、やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。


ミラノ勅令による公認

数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年アクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。

311年ガレリウス帝が大迫害の後に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世リキニウス帝によるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認された。その後もユリアヌス帝などの抑圧を受けたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止された。しかしローマ帝国の上流階層の古典信仰はその後も生き残った。例えば415年になってキリスト教司教の煽動によるキリスト教徒の暴徒がアレクサンドリアムセイオンを略奪破壊し、ヒュパティアのような優れた学者を虐殺するという非道をおかしている。

初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を祝日とするようになった。321年にコンスタンティヌス帝は日曜日強制休業令を強制した。このとき反対者への弾圧により死者が出たともいわれている。日曜日の安息日化は364年のラオディキア教会会議により正式に決定され、現在に至っている。


神学論争勃発と頻繁な公会議開催

古代の神学の中心は主に東方のギリシア教父によるものであった。アレクサンドリアオリゲネスアタナシウスカッパドキアの三教父バシリウスナジアンゾスのグレゴリオスニュッサのグレゴリオスなどである。やがて西方のラテン教父アウグスティヌスなども影響を与えている。

こういった神学の発展にともない教理論争が激しくなる。そのため、しばしば地方教会会議や普遍公会議が行われるようになった。

2世紀以後、マニ教の流入や、モンタノス派アリウス派が起こり、教会内での意見の統一が難しくなった。とくに4世紀以降、キリストの位置付けをめぐる一連の神学論争が教会の分裂を招くまでになった。キリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシウス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに加熱していった。



皇帝の介入と正統信仰の誕生

キリスト教の派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスニカイア公会議(325年)を開いた。なお、ローマ皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスは公会議の時点はキリスト教徒ではなかった(洗礼を受けたのは死の直前)。あくまでもローマ帝国の求心力低下の課題解決に図るためキリスト教の勢力を利用することがコンスタンティヌスの意図であった。

このニカイア公会議の結果、アリウス派は異端とされ追放された。さらに皇帝テオドシウス2世により開かれたエフェソス公会議(431年)では、ネストリウス派も異端とされ追放された。


★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki