キューバ革命
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革命政権成立後カストロ

キューバ革命は、その当初より社会主義革命をめざしたわけではなかった。しかし、革命政権は外国資本・アメリカ合衆国との対立姿勢を示した上、外交的にはソ連との接近を深め、農地改革法も制定された。こうした動きに対して、アメリカ合衆国は厳しい態度で臨んだ。当時の米大統領であったアイゼンハウアーは、亡命キューバ人を組織・訓練して、この革命政権を打倒しようと図った。1961年より米大統領になったケネディは、この作戦を継承して、同年4月にピッグス湾事件を起こすが失敗に終わった。これを受けて革命政権は、5月に社会主義宣言を発し、キューバ革命を社会主義革命として位置づけた。

革命政権の粛清や、資本主義経済の放棄を嫌った人々はアメリカ合衆国に逃れたが、キューバ国内ではバティスタ政権下の警官及び兵士が、殺人と拷問を含む人権侵害及び戦争犯罪で裁判にかけられた。殺人で有罪判決を受けた者達500人以上のほとんどが銃殺され、残りは長い懲役刑を宣告され収監された。チェ・ゲバラはラ・カバナの最高検察官に任命された。これらはカストロによる反革命活動勢力、バティスタ忠誠者達を浄化する試みの一部であった。他に多くの者が警察及び軍から解任され、旧体制の数人の高官は追放された。これに加えて革命政府は反体制派の追放政策を行った。

彼らの多くは弁護士、目撃者および参加社会の人々(彼らの多くは検察官の求刑よりも重い刑を頻繁に要求し、しばしば残忍な要求を行った。)を交えた裁判の後処刑された。更に超法規的な処刑も行われた。最も悪名高いものは、サンチアゴの占領後にラウル・カストロによって指揮されたバティスタ政権兵士の捕虜70名以上の処刑である。

カストロはアメリカ合衆国及び諸外国の所有するキューバ国内における財産を1960年8月6日に国有化し、アメリカは対抗策としてキューバとの通商停止を行った。それは40年以上経った現在も継続されている。当初は友好国ソ連との貿易により窮地を凌いだが、やがてソ連崩壊後はキューバ経済も苦境に立たされている。

1961年5月に、革命統一機構(ORI)はフィデル・カストロのM26、ブラス・ロカによって率いられた人民社会党(PSP, 旧キューバ共産党)、ファウレ・チョモーンによって率いられた3月13日革命指令の合併によって形成された。1961年7月26日、ORIはキューバ社会主義革命統一党(PURSC)になり、1965年10月1日にキューバ共産党と名称を変えフィデル・カストロが最初の長官に就任した。


脚注^ アメリカの外交干渉権を定めたもの。承認なく条約を結んだり独自に借款を受けたりしてはならないなど8条項。


関連項目

キューバ危機

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更新日時:2008年9月26日(金)05:03
取得日時:2008/10/07 14:09


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki