ガンデンポタンの組織は、時期によって変化がみられ、その首班は次のように変遷した。1642年?1720年 「ダライラマの財産管理や世俗業務の処理の担当者」という位置づけのデシーを首班とする1720年?1727年 カロンと称する大臣たちの合議制1728年?1750年 ポラ家が世襲するジュンワン(郡王)を首班とする1750年?1959年 ダライラマ(または摂政)の下で、俗人3人、僧侶1人からなる「カシャク」(内閣)を指導部とする。
ガンデンポタンの組織機構の変遷は、次のように時期区分できる。
ダライラマの下にハンとデシーが並立(1642年?1706年)
ハンによるデシー打倒(1706年?1717年)
ジュンガル軍の占領下(1717年?1720年)
三閣僚(のち五閣僚)並立体制(1720年?1727年)
ジュンワン(郡王)政権(1727年?1750年)
カシャク制(1751年?1910年)
ダライラマ13世の近代化とその後(1910年?1959年)
亡命政権時期(1959年?)
デプン寺のダライ・ラマ5世の財務監ソナムチュンペルが西モンゴル・オイラトのホショト族の指導者グシ・ハンと結び、グシ・ハンは1637年?1642年にかけてチベットの全域を平定、チベットの中枢部(ヤルンツァンポ河流域)がダライラマ領として寄進され、その統治機関としてガンデンポタンが発足した。1753年?1754年頃に編纂された法典には、チベットのハンと、ガンデンポタンの首班デシーが「ダライラマの下で「日月の一対」をなす」と描写されている。
ダライラマ6世、7世を巡るグシ・ハン一族の内紛とジュンガル・清朝の介入
チベット動乱が首都ラサに波及した1959年3月10日、ダライラマ14世はノルブリンカ宮をインドへ向け脱出、中国国務院総理の周恩来が「西蔵地方政府の廃止」を宣言したのに対抗し、国境の手前でチベット臨時政府の発足を宣言したのち、インド領に入った。
同年4月29日、インド北部の丘陵地ムスーリーで新たに行政機構が再組織され、チベット亡命政府(中央チベット行政府 Central Tibetan Administration(CTA)が発足した。1960年5月、亡命政府はダラムサラのガンジョン・キショッと呼ばれる地域に拠点を移した。
ダラムサラでは、世界人権宣言をベースとしたチベット憲法草案が交付され、行政を担う内閣(カシャク)、民主的に選出される議会(亡命チベット代表者会議)、行政から独立した司法機関(亡命チベット最高司法委員会)などが整備された。
内閣管轄下の諸省:
宗教・文化省:チベットの宗教的、文化的遺産を保存し発展させることを目的とし、亡命社会のチベット仏教僧院・尼僧院を支援、次の施設を管理する。
チベット舞台芸術研究所(ダラムサラ)
チベット・ハウス(所在地:ニューデリー)
チベット文献図書館(ダラムサラ)
高等チベット学中央研究所 (ヴァラナシのサールナート)
チベット文化ノルブリンカ協会(ダラムサラ近郊のシドプール)
内務省:亡命チベット人入植地支援を主な目的とする。
財務省:亡命政府の活動基金を集めるために、各地で25個の企業体を運営し、献金を集める。また亡命政府の年間予算計画を立てている。
ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領
文部省:インド、ネパールおよびブータンにある84ヵ所の学校を管理し、30,000人の児童を受け入れている。
公安省:ダライ・ラマ法王の安全確保及び占領下のチベットでの開発事業を監視する調査を主な任務とする。
情報・国際関係省:対外的な宣伝を目的とする
厚生省:チベット人亡命者会で61ヵ所の基本健康管理センターと6ヵ所の委託病院を管理し、チベット医学・暦法研究所の運営を支援する。
国民会議:亡命社会に所属する有権者による民主的な選挙によって選出された議員よって組織された議会。祖国復帰後は、国会となることを想定。
亡命政府の情報・国際関係省はニューデリー、ジュネーヴ、ニューヨーク、東京、ロンドン、カトマンドゥ、ブダペスト、モスクワ、パリ、キャンベラ、プレトリア、台北に代表事務所を設置している。東京の代表事務所は、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(LIAISON OFFICE OF H.H.The DALAI LAMA for Japan & East-Asia)を名乗っている。
チベットの実権を掌握する中華人民共和国に対する配慮から、亡命政府を外交的に承認する国はないが、欧米の主要国や中華民国などの指導層には亡命政府の主張の賛同者も多い。