ガリレオが地動説について言及しはじめると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿( ⇒Francesco Romulo Roberto Bellarmino )だった。ベラルミーノはガリレオをフィレンツェからローマに呼び出した上で無罪の判決を下し、署名入りの判決文をガリレオに手渡した。教会の布告は教会の敷地内でのみ有効であるという解釈だった。ただしこれは文字通りの意味ではない。神や天地創造と地動説を結び付ける発言をしなければ問題はない、という意味である。ベラルミーノはこの直後、他人を刺激するような言動は控えたほうがよいと、友人として忠告した。
この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、(天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為)
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。
1630年、ガリレオは、地動説の解説書、『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方を、あくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2名の者による対話によって紹介する形をとり、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書かれていた。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。容疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなく、フィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが、事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は、正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。
裁判で、ガリレオはベラルミーノ枢機卿の無罪の判決文を提出して反論した。しかし、検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた判決文は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオの持つ無罪の判決文には教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini )がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した事も、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながっている。
1633年の裁判の判決で、地動説を捨てることを宣誓させられたガリレオが、宣誓の言葉に続いて小声で(あるいは大声で)「それでも地球は動く(回っている)!」と叫んだという逸話がある。しかし、当時の裁判制度からしてありえないと考えられている。実際は裁判が終わってくたくたになったガリレオが「あぁ、めまいがする。まるで、地球が回っているようだ」と言っただけのことだという説もある。[要出典]
ある説では、科学者としての信念を曲げざるを得なくなり、宗教裁判後に「この世で私は死人である」、と言ったとも伝えられている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、ヘルマンによれば1822年まで撤回されなかった。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトは、ガリレオ裁判の報が、自然科学にかんする自説の出版をためらわせたことを『方法序説』(1637年刊)に記している。
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。
この裁判には疑問が多いことから、20世紀になって検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
Giorgio di Santillana によれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。