ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。これを用いて1609年月に望遠鏡を向けてみたガリレオは、月面にクレーターや山、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた。)があることを発見した。この黒い部分は今でも“海”(Marin 、“海”を意味するラテン語)と呼ばれている。また翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius )として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。
金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった。
さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人となった。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽黒点を観測していた可能性もある。形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった。これは、アリストテレス派の研究者と激しい議論となった。なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡で太陽を直接見たためだと考えられている。
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中で既に地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
このほかにも、月の表面に凹凸があることも発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えではこれも説明がつかないものであった。
また、天の川が無数の恒星の集合であることも発見した。
ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を発明したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている[1]。 だがこの有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(Viviani )の創作で、実際には行われていない[要出典]、ともされる。
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。
大きな過ちのある説を多く発表している。ただし、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなどにも、似たような誤りは多くある。ここでは主なものをあげる。
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続けた。「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても、これを撤回しなかった。
地動説の証拠として潮汐をあげた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は、潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがある。ただし、ガリレオのこの主張は、当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もし、ガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常2回起きる。ガリレオは、2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。 このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。
ガリレオが地動説について言及しはじめると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿( ⇒Francesco Romulo Roberto Bellarmino )だった。ベラルミーノはガリレオをフィレンツェからローマに呼び出した上で無罪の判決を下し、署名入りの判決文をガリレオに手渡した。