ガリレオ・ガリレイ
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年譜

1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。

1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。

1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。

1586年 最初の論文『小天秤』を発表。

1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。

1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。

1591年 父ヴィンチェンツォ死去。

1592年 ピサ大学の職が任期切れになる。

ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される。)


1592年 ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。

1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。

1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。2女1男をもうける。

1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)

1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。

(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)

1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。

1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。

1610年 木星の衛星を発見、メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星と名づける。これを『星界の報告』として出版、発表する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。

(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)


1610年 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。

1611年 リンチェイ・アカデミー入会。

1613年 『太陽黒点論』を刊行。

1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。

1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。

1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。

1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。

コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。)


1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。

1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。

1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行。

1632年 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。

1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。

1633年 シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。

1633年 アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。

1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。

1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。

1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。

晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。

1642年 アルチェトリにて没。


業績


天文学

ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。これを用いて1609年月に望遠鏡を向けてみたガリレオは、月面にクレーターや山、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた。)があることを発見した。この黒い部分は今でも“海”(Marin 、“海”を意味するラテン語)と呼ばれている。また翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius )として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。

金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen