1915年2月19日英仏大艦隊による海上からの砲撃が開始されたが、悪天候によって上陸部隊の到着が遅れたこともあり、ダーダネルス海峡の制圧はできなかった。3月18日に艦隊は海峡突破を試みたが、トルコ側が敷設した機雷に接触して戦艦3隻(フランスのブーヴェ、イギリスのオーシャン、イレジスティブル)が沈没、3隻が大破した。このため連合軍は海軍力だけでダーダネルス海峡を制圧することを断念せざるを得なかった。
連合軍の上陸作戦は1915年4月25日に開始された。ところが上陸作戦が開始される頃には、トルコ軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構えていた。英第29師団はダーダネルス海峡北側のガリポリ半島先端のヘレス岬付近5箇所に上陸したが、トルコ軍の反撃に阻まれて2箇所では撤退し、3箇所の海岸を確保するに止まった。ANZAC軍はガリポリ半島北側のエーゲ海に面した名もない入り江に上陸作戦を敢行、トルコ第19師団の猛攻撃を受けながらも橋頭堡を確保した。この入江は今日ではアンザック入江と呼ばれている。また英国海軍陸戦師団とフランス軍部隊は海峡のアジア側に陽動作戦として上陸を試みた。
5月から7月にかけて連合軍、トルコ軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動く事はなかった。5月には上陸部隊を支援していたイギリス戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで(中旬にトルコ水雷艇によりゴライアスが、下旬にドイツ潜水艦 U-21 によりトライアンフ及びマジェスティックが)撃沈されたため、海軍は戦線を離脱した。
8月に入ると連合軍新鋭2個師団がアンザック入江北側のスブラ湾に上陸し、攻勢を試みたが、トルコ軍がいち早く高地を占拠したため、ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の8月大攻勢も失敗に終わり、トルコ領内へのさらなる進撃は望めない状態となる。
10月に入るとイギリス政府はガリポリ作戦の撤退を検討し始め、撤退に反対する司令官のハミルトン将軍を解任、サー・チャールズ・モンロー将軍に交代させた。この月、これまで中立だったブルガリアが同盟国側に参戦することが明らかになったため、ドイツ軍は陸路でトルコとの連絡が可能となり、連合国軍はドイツの超大型大砲でガリポリの橋頭堡が砲撃を受ける危険も出てきた。また10月5日にはギリシャ領サロニカに英軍が上陸して地中海方面で第二戦線が形成されたこともあり、モンロー将軍はついに撤退を決意した。
撤退が決定された当時、ガリポリ半島には連合軍14個師団が展開していたが、アンザック入江とスブラ湾では12月7日から順次撤退が行われ、12月20日順調に撤退を完了した。ヘレス岬は将来の攻撃のため橋頭堡を維持する計画であったが、12月27日にはヘレス岬からの撤退も決定され、1916年1月9日には最後の英軍部隊がヘレス岬を離れた。
この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は次のとおりである。
トルコ軍 戦死86,692人、戦傷164,617人
イギリス軍 戦死21,255人、戦傷52,230人
フランス軍 戦死約10,000人、戦傷約17,000人
オーストラリア軍 戦死8,709人、戦傷19,441人
ニュージーランド軍 戦死2,701人、戦傷4,852人
インド軍 戦死1,358人、戦傷3,421人
カナダ軍 戦死49人、戦傷93人
これ以外に、長い塹壕戦のため約140,000人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されている。
イギリスの物理学者でモーズリーの法則を発見したヘンリー・モーズリーも戦死した。
ガリポリ作戦はトルコ軍主力を対ロシア作戦から本土防衛に振り向ける効果があった。しかし連合国指導部の無能や計画の杜撰さによる弾薬不足や装備の悪さが敗北の原因となったと批判を浴び、ハーバート・アスキス首相が辞任して、ロイド・ジョージが新首相に就任した。ウィンストン・チャーチルはこの作戦の立案者であったために失脚し雌伏を余儀無くされた。
オーストラリアとニュージランドはボーア戦争に義勇兵を送ったことはあるが、本格的な戦争としては初めての参戦であった。戦いの経過は従軍記者によって詳細に報道され、両国国民に大きな衝撃を与え、これが国家形成の大きなバネとなったとされる。ANZAC軍のガリポリ上陸記念日である4月25日はオーストラリアでもニュージーランドでもアンザック・デーとして国民の祝日となっている。
トルコは長年「ヨーロッパの病人」と呼ばれてきたように19世紀以来列強に連敗を重ねてきたが、この戦いでは奮戦して英連邦軍とフランス軍を撃退したことは諸外国に驚きを与え、トルコ国民には熱狂をもって受け取られた。中でもトルコ軍のムスタファ・ケマル大佐は多大な戦果をあげて一躍国民的英雄となり、准将に昇進してパシャの称号を贈られた。ケマルはその後大戦終結まで各地で活躍して揺るぎない名声を獲得し、大戦後に起こった祖国解放戦争の指導者となってトルコ共和国を建国するに至る。
映画
『誓い (原題:Gallipoli)』オーストラリア映画、ピーター・ウィアー監督、1981年
『アンザックス Part 1 ガリポリ攻撃作戦 (原題:ANZACS; The war down under)』オーストラリア映画、ビノー・アメンタ、ジョン・ディクソン、ジョージ・ミラー監督、1984年
外部リンク
⇒ガリポリ上陸作戦地図(日本語)
表・話・編・歴第一次世界大戦 - "War to End All Wars"
経過
戦線西部戦線 - 東部戦線 - イタリア戦線 - 中東戦線 - アジア太平洋戦線 - アフリカ戦線
序章原因 - シュリーフェン・プラン - アルザス・ロレーヌ問題 - 未回収のイタリア - サラエボ事件 - オーストリア最後通牒