1714年のアン女王の死によってハノーヴァー出身のジョージ・ルイスがジョージ1世として即位した。ジョージ王朝期にはパラーディオ様式に再び注目が集まり、第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(バーリントン卿)および彼の庇護を受けた多数の建築家がポーティコに象徴される建築物を設計した。その中でもイタリアでの画家修行中にバーリントン卿と出会ったウィリアム・ケントは邸宅および庭園の設計に多彩な才能を発揮している。
パラーディオ主義が発展したものが新古典主義と称される建築様式である。代表的な建築家であるロバート・アダムは邸宅のみならず、庭園や果ては家具までも自分で設計し、そのどれもが高い評価をえた。ケドルストン・ホール、ルートン・フー、ケンウッド・ハウスなどが代表作として挙げられる。ヘンリー・ホランドは造園家ケイパビリティ・ブラウンの弟子として修行を積み、ペリングトン・ホール、クレアモント・ハウスなどを設計した。これらの邸宅の内部構造としては廊下が多用され、応接間、食堂室、図書室などが設置されるようになった。
風景式庭園はジョージ王朝期の18世紀後半に登場し、ヨーロッパ大陸の影響を受けずに発展した英国独自の要素である。田舎の自然を再現する事を目的とし、自然な形の池や小川、なだらかに起伏する芝生、林などが配置された。前述のウィリアム・ケントとケイパビリティ・ブラウンがこの様式を完成させた。さらに、自然のみならずそこに人工の建築物を置いて絵画的な景観を造ろうと試みるピクチャレスク景観がユーヴェデイル・プライスによって提唱され、小作農の住居を思わすコテジを庭園内に配置させるなどの方法がとられた。この思想は邸宅の建築にも影響を与え、その後のゴシック建築研究へとつながっていった。
18世紀後半から開始された産業革命と農業革命によって繁栄する英国は、1837年に即したヴィクトリア女王の治世にその円熟期を迎えた。この時代のヨーロッパは復興主義(リヴァイヴァリズム)と称される過去の様式の再評価および、それらの特徴を混合して用いる折衷主義(エクレクティシズム)が盛んとなり、イギリスの建築においては中世のゴシックに対する関心が高まった。このゴシック・リヴァイヴァルはゴシックが英国独自の物であり、英国国教会としても好ましいという民族主義的な意見によってウェストミンスター宮殿を始めとする国家による建築に多用された。18世紀後半にジェームズ・ワイアットが設計に関与したストロベリー・ヒルやフォントヒル・アビーなどはこの建築様式に基づいて建設された初期のカントリー・ハウスである。内部構造はさらに細分化され、使用人の空間には食器室、ワイン・セラー、ナイフ室、リネン室、食料保管室、スティル・ルーム、洗濯室、乾燥室など多様な部屋が設けられた。1885年に完成したクラグサイドにおいては電気照明が初めて利用されている。
ハンフリー・レプトンによって庭園には温室が導入され、熱帯地方の珍しい植物を栽培することが流行した。チャッツワース、クリスタルパレスにおける温室が代表例である。
ヴァナキュラー・リヴァイヴァル
ハーラクストン・ホール(1834年-1855年)
スコットニー・カースル(1835年-1843年)
ベッテスハンガー・ハウス(1861年)
オールド・イングリッシュ・スタイル
リーズウッド(1866年-1869年)
クラグサイド(1869年-1885年)
アドコート(1876年-1881年)
カントリー・ハウスの凋落は1870年代に発生したイングランドにおける農業不況と20世紀初頭の第一次世界大戦がきっかけであった。カントリー・ハウスの維持には低賃金で働く大量の使用人が必須であったが、産業革命による社会構造の変化によって富裕な大貴族といえども大量の使用人を雇うことは経済的に困難になった。大戦が勃発すると、上流階級に属する若者たちの多くがノブレス・オブリージュの伝統に従ってフランドル戦線へと出征し、二度と故郷へ戻らなかった。決定的な原因となったのは二つの大戦においてカントリー・ハウスの多くが政府によって接収されたことである。主に兵舎として利用されたカントリー・ハウスは戦争中ほとんどメンテナンスを受けておらず、終戦後もそのままの状態で返却された。労働党政権による増税と農業生産物価格の下落も追い打ちをかけ、多くの貴族が先祖伝来の館を手放した。中には館を取り壊したうえで建築資材として転売する例もあった。
多くのカントリー・ハウスが学校、病院さらには刑務所へと改装して利用された。「ステイトリー・ホーム」という名称とは裏腹に威厳は失われ、住居として利用される例も減少した。クリブデンやハートウェル・ハウスは郊外における高級ホテルとして利用されたが、これは建物にとり幸運な例であったといえる。ジョン・マーティン・ロビンソンの著した『近年のカントリー・ハウス』("The Latest Country Houses") によると1875年から1975年の間に全体の4分の1にあたる1,116ものカントリー・ハウスが何らかの原因で荒廃したとされる。年別にみたピークは1955年で、76棟のカントリー・ハウスが破壊された。
1974年にヴィクトリア&アルバート美術館において『カントリー・ハウスの崩壊』("The Destruction of the Country House") という展示が公開され大きな反響を引き起こした。さらに富裕層の減税政策を採用したサッチャー政権の成立により、凋落の一途をたどっていたカントリー・ハウスの総数は安定を取り戻し、さらには微増しているとさえ指摘されている。しかしながらカントリー・ハウスが有していた資本、階級と農業社会との関係は完全に過去のものとなった。
『図説 英国貴族の城館』にはセント・ジャーマンズ伯爵が現在も所有するカントリー・ハウスが取り上げられている。著者が屋内だけで20人以上の使用人が存在したであろうと推定している邸宅において、現在働く使用人は二人の庭師とメイド、家政婦、コックが一人ずつだけである。
今日のイギリスにおけるカントリー・ハウスの所有者およびその所有目的は多種多彩である。モンタキュート・ハウスやウェスト・ワイクーム・パーク、ライム・パークに代表される多くのカントリー・ハウスはナショナル・トラスト、イングリッシュ・ヘリテッジなどの公的機関によって所有されており、ミュージアムとして一般に解放されている。このような状況を指してステイトリー・ホーム産業などと揶揄されることもある。