アレクサンドロス大王の東方遠征以来、たびたび中央アジア・ペルシアの勢力のインドへの侵入路となった。7世紀にアラブ人によって征服され、イスラム世界の一部となる。ムガル帝国の創始者バーブルは、シャイバーニー朝にサマルカンドを追われてこの都市を首都に定め、インドを征服した。
ムガル帝国とサファヴィー朝との争奪を経て1738年にアフシャール朝のナーディル・シャーによって征服され、その死後、パシュトゥーン人(アフガン人)がアフガニスタンの起源となるドゥッラーニー朝を興すとその首都となった。1839年と1879年に、2度のアフガン戦争で2度とも一時イギリス軍の占領下に置かれる。
1979年、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻が始まると、12月23日にソ連軍によって占領され、1988年に撤退するまでその司令部が置かれてムジャーヒディーンのゲリラとの激しい攻防の中心となった。1992年にナジーブッラーの共産主義政権が崩壊すると、カーブルはムジャーヒディーンの手に落ちたが、ムジャーヒディーン各派の紛争によって甚大な被害を受けた。同年12月、かつては市内に86台走っていたトロリーバスはすべて運行停止を余儀なくされた。
1993年までに、市内の電気系統と上下水道は完全に機能を停止した。当時、ラッバーニーが率いるイスラム協会が市内を掌握していたが、有名無実の首相ヘクマティヤール率いるイスラム党が市街を1996年まで3年間にわたり包囲した。市内では、イスラム協会、ドスタム将軍派のイスラム民族運動、ハザラ系のイスラム統一党の間で戦闘が続き、数万人の民間人が犠牲になるとともに、大量の難民が発生した。
1996年にカーブルはターリバーンに陥落し、ナジーブッラーは公開処刑された。ターリバーンのカーブル占拠の間は、カーブルを巡る紛争はすべて止んだ。ラッバーニー、ヘクマティヤール、ドスタム、マスードらはカーブルから撤退した。
約5年後、2001年10月にアメリカがアフガニスタンに侵攻した。米軍による激しい空爆によって、同年11月21日ターリバーンはカーブルを放棄し、北部同盟が代わってカーブルを支配下に治めた。12月20日、カーブルはアフガニスタン暫定行政機構の首都となり、その後カルザイ大統領の率いる現政権に引き継がれて、現在に至る。
カブール国際空港がカーブル市民の長距離移動の玄関口となっている。同空港は、アフガニスタンの国営航空であるアリアナ・アフガン航空のハブ空港であるだけでなく、多くの外国の航空会社にも利用されている。3,500万ドルの費用を掛けた新ターミナルが、旧ターミナルの隣に建設中で2008年に完成の予定である。
カーブルには公営のバス会社 (Millie Bus) も運営されており、市内の多くの路線がある。2007年現在、約200台のバスが稼働しているが、さらに増便される予定である。かつてカーブルを走行していた、近代的なトロリーバスを再導入する計画も検討中である。バスに加えて、タクシーも市内のどこでも利用することができる。カーブル公営バス (Millie Bus)
自家用車の利用もカーブルでは増えつつあり、トヨタ、ランドローバー、BMW、ヒュンダイなどの代理販売店が市内中に見られる。一般道路や高速道路の整備が進むに連れて、自家用車を購入する人が増えている。カーブル市内でもっとも普通に見られるのはトヨタのカローラである。バイクを除いて、カーブル市内のほとんど全ての交通機関は軽油を利用している。
通信ビジネス街の新しいランドマーク、カーブル・トレード・センター
GSM/GPRS携帯電話サービスが、Afghan Wireless、Roshan、Areebaの3社によって提供されており、携帯電話の利用が飛躍的に伸びている。2006年6月、アラブ首長国連邦の通信会社Etislatは、アフガニスタン国内での営業免許を政府から取得したことを発表し、全国規模の携帯電話ネットワークの構築の意志を明らかにした。同年11月、アフガニスタン通信省と中国の通信会社 (ZTE) は、6,450万ドルで全国に光ファイバーネットワークを構築する契約を交わした。これによって、カブール市内だけでなく全国で、電話、インターネット、テレビやラジオ放送の通信状態が向上することが見込まれる。2007年現在、アフガニスタンのテレビ放送局は6社ある。
2006年10月時点で、アフガニスタン国際銀行 (INGグループによって運営されている)、カーブル銀行、ウエスタンユニオンなど、カーブル市内には14の銀行がある。