日本国内にてオーストリアはしばしばオーストラリアと間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。
オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[2]。
2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚える様に呼びかけている。
両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は"European"(ヨーロッパのオーストリア)が付け加える場合がある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い◆型にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA (オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。
2006年10月、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した[3]。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。
発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。
しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[4]。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。
その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスコミュニケーションなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の朝日新聞の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[5]。
大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断った上で
オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる
マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する
「オーストリーワイン」がその成功例である
などと述べるにとどまっている[6]。
詳細はオーストリアの歴史、ウィーンの歴史をそれぞれ参照
前800年-前400年 - ハルシュタット文明
前14 - ローマ帝国の領土となる。ウィンドボナ
9世紀 - カール大帝が東部辺境領(オストマルク)を設置。
976年 - バーベンベルク家の辺境伯領が設置される。
1156年 - 神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)に属する「オーストリア公領」となる。
1189年 - 第3回十字軍
1246年 - バーベンベルク家断絶。
1278年 - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公となる。以後1918年までハプスブルク家の領土となる。
1438年 - アルブレヒト2世、神聖ローマ皇帝即位。ハプスブルク家の帝位独占始まる。
1519年 - カール5世即位。
1526年 - ハンガリー王ラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死し、オーストリア大公フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)がハンガリーとベーメンの王位を継承する(事実上のハプスブルク帝国の成立)。
1529年 - オスマン帝国による第一次ウィーン包囲。
1600年当時のヨーロッパ18世紀のウィーン1913年のオーストリア・ハンガリー帝国