註1 : 正式名称
日本語:帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦
ドイツ語:Die im Reichsrat vertretenen Konigreiche und Lander und die Lander der heiligen ungarischen Stephanskrone
マジャル語:A birodalmi tanacsban kepviselt kiralysagok es orszagok es a magyar Szent Korona orszaga
目次
1 歴史
1.1 オーストリア帝国の衰勢
1.2 二重帝国の成立
1.3 自治獲得の動き
1.4 皇帝一族の不幸
1.5 サラエボ事件
1.6 第一次世界大戦の勃発
1.7 ハプスブルク帝国崩壊
2 評価
3 文化
3.1 作曲家
3.2 学者
3.3 画家
4 略年表
5 関連項目
6 参考文献
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1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅してその面目を失うなど、確実に国際的地位を低下させた。
この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。