正式名称は、Koninkrijk der Nederlanden(コーニンクレイク・デル・ネーデルランデン)。通称は、Nederland(ネーデルラント)。俗称のHolland(ホラント)もよく使われる。
公式の英語表記は、Kingdom of the Netherlands。通称は、The Netherlands。Holland は俗称。
日本語の表記は、オランダ王国。通称はオランダ。漢字による当て字で、和蘭、和蘭陀、阿蘭陀と表記され、蘭と略される。また、オランダ語由来のネーデルラント(またはネーデルランド)、ドイツ語由来のニーダーラントと呼ぶこともある。
オランダ語のネーデルラントは、「低地の国」「低地地方」を意味する普通名詞に由来するため、基本的に定冠詞をつける。正式名称に使われているder Nederlandenは複数形扱い、通称のhet Nederlandは単数形扱いである。ゲルマン系言語では、The Netherlands(英語)、Die Niederlande(ドイツ語)、ラテン系言語では、Les Pays-Bas(フランス語)、los Pa?ses Bajos(スペイン語)などで、これらはいずれも複数形扱いである。
一方、Holland(ホラント)は、スペインの支配に対して起こした八十年戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来し、固有名詞であるため冠詞が付かない。
日本語のオランダは、ホラントのポルトガル語訳である Holanda が、ポルトガル人宣教師によって戦国時代の日本にもたらされたことによる。
詳細はオランダの歴史、オラニエ=ナッサウ家、オランダ君主一覧をそれぞれ参照
ハプスブルク家のスペインとの八十年戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で独立を承認された。ネーデルラント連邦共和国は17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて、黄金時代を迎えた。しかし、イングランドとの3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。間もなく、ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合された。ウィーン条約ではこれまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家が王位に就いた。これが現在のオランダ王国の起源である。ただし、ベルギーは1830年にオランダに対して独立戦争を起こし、1839年にはオランダはベルギーの独立を承認した。ナポレオン戦争後はイギリスが世界覇権を称え、オランダの海上覇権は地に落ちた。オランダは残された東インド植民地(インドネシア、オランダ領東インド)の領域支配を進める。第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずナチス・ドイツに本国を占領され、オランダ王家はイギリスに亡命した。その後は中立を破棄し日本に宣戦布告するが、東インド植民地は日本軍に占領された。戦後再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を戦ったが、独立を承認せざるを得なくなり、結果として国際的地位の低下を招いた。欧州ではベネルクス3国としてヨーロッパ共同体の創設メンバーとなり、ヨーロッパ連合に発展させた。
詳細は日蘭関係を参照
1600年4月に豊後国(大分県臼杵市)にオランダのデ・リーフデ号が漂着。徳川家康がこれを厚くもてなしたことから両国の関係ははじまった。
江戸時代の鎖国中の日本(徳川幕府)の数少ない交易国の一つで、当時のヨーロッパの学問がオランダ語文献により、日本にもたらされた。これを蘭学という。当時の日本の知識人は蘭学によりヨーロッパの風習を取り入れ、「おらんだ正月」などの行事を行った。またオランダ商館のあった長崎には、料理などにオランダ文化が伝えられた。
幕末は太平洋に勢力を伸ばしたいイギリス・フランスらと協調し、国王が開国を勧める親書を江戸に送っている。また、米国の強硬姿勢によって日本が開国した後は、英仏米露と共に通商通航条約(いわゆる不平等条約)を結んだ。その後、明治以降の国際関係のなかで、日本におけるオランダの地位は下がっていった。
第二次世界大戦中、日本が英米に攻撃を開始して太平洋戦争が勃発すると、イギリスに亡命していたオランダ王国政府は日本に宣戦布告して日蘭は戦争状態となった。