14世紀後半以降、モンゴル帝国が解体してゆく過程でアリクブケの後裔イェスデルが、クビライ家正統継承者である北元のトグス・テムル・ハーンを殺害してハーン位を奪取する事件がおこり、14世紀の末から15世紀の前半にかけて、モンゴル高原では西部の諸部族、中でもアリクブケ一門支持派の基幹部族であるオイラトの力が高まった。
15世紀初頭には、オイラト部族長マフムードは高原でもっとも有力な勢力となっていたアスト部族のアルクタイを明の永楽帝が攻撃するのに協力、一躍高原最大の勢力に拡大した。永楽帝は今度はオイラトの覇権を阻もうと1414年に親征を断行しマフムードを討ったのでオイラトは衰退を余儀なくされるなど、オイラトのマフムードとアストのアルクタイは永楽帝の介入を巻き込んでモンゴル高原を左右する争いを続けた。
この騒乱の結果、モンゴルはハーンが次々に改廃され、部族集団が陣営を集合離散する大混乱が起こり、部族の再編が進んだ。こうして形成されたのが四十モンゴル(中国史料では韃靼(タタール)いう)と四オイラト(瓦剌)と呼ばれる二大部族連合であり、オイラト集団はケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容した。
永楽帝の死により明の圧力が弱まった後、勢力を拡大したマフムードの子トゴンは1434年にアルクタイを滅ぼし、ハーンを自らの傀儡に擁立して四十モンゴルを従えた。トゴンおよびその子エセンは西ではモグーリスタン・ハン国やウズベクといった遊牧国家と戦って勢力を拡大し、ついにモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至った。
トゴンが没すると、エセンはトグス・テムルの横死以来50年ぶりに訪れた統一を背景に明に対する侵攻を開始し、1449年に迎撃してきた正統帝の親征軍を撃破して、正統帝を捕虜にした(土木の変)。この戦果は、明側が正統帝の弟景泰帝を即位させて徹底抗戦の構えを見せたためにエセンに十分な利益をもたらさなかったが、これに力を得たエセンは1453年に傀儡のハーンを滅ぼして自らハーンに即位した。
しかし、チンギス・ハーンの子孫ではないエセンの即位にはモンゴルの間ではきわめて不敬とみられて評判が悪く、また同輩中の第一人者であったエセンが君主として君臨しようとしたことはオイラト部族連合内の諸部族長が募らせていた不満を爆発させた。エセンは即位からわずか1年ばかり後の1454年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。この混乱により、モンゴルの王族・貴族の数多くが殺害され、生き残ったのはわずかにオイラト部族の母をもつ数人の王子だけという状況となり、モンゴル高原の混乱はさらに続いた。
エセンの死後、オイラトは勢力を大幅に後退させた。それでも幾人かの有力な首長はモンゴルのハーン位争いに介入し、オルドスなどモンゴル高原の西部を制する勢力を誇った。
しかし、1487年にダヤン・ハーンが即位するとモンゴルの再編統一が行われ、オイラトの勢力はダヤン・ハーンの子孫によって次第に西に追いやられた。16世紀半ばにはダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンに敗北し、世紀の後半にはダヤン・ハーンの別の系統の子孫であるハルハのハーンたちに服属することを余儀なくされた。
やがてモンゴルがダヤン・ハーンの後裔たちの間で分割相続が進み、アルタンの死から後はモンゴル全体を統一する権力が消滅した結果、1623年になってオイラトはモンゴルより独立を果たした。この時代のオイラト人の間ではモンゴルとは別個の集団としての自意識の形成が進み、モンゴル文字をオイラト方言を記しやすいように改良したトド文字が考案されたりした。
同じころ、満州に勃興した後金が内モンゴルの諸部族を服属させ、国号を大清と改めた。これに対して清の脅威にさらされた外モンゴルのハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640年に「オイラト・モンゴル法典」を制定して部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争はやんだ。
しかしオイラトの内部では、やはり同じころ、部族間の力関係が変化し、内紛が絶えず起こっていた。1632年、ケレイトのオン・ハンの後裔を称するオイラトの有力部族トルグートは内紛を避けて西方に移住し、ヴォルガ川下流域に移住した。彼らの後裔が現在のカルムイク共和国に住むカルムイク人である。
グシ・ハンのチベット征服
17世紀のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホショート部族が有力となっていた。
1630年頃の内紛の後、ホショート部の首長となっていたグシ・ハン(トゥルバイフ)は、帰依していたダライ・ラマの宗派ゲルク派がチベットにおいて政治的に危機に陥っているのを救うという名目で、1636年にオイラト軍を率いて出動、1637年初頭、チベット東北部のアムド(現青海省)を制圧、その後ラサに上ってダライ・ラマ5世より「シャジンバリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルポ」の称号を授かった。オイラト各部の首長たちはチンギス・ハーンの子孫ではなかったためハーンになることができず、従来は全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていたが、グシ・ハン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例が生じた。
ダライ・ラマから称号を与えらたオイラトの支配者名部族称号(チベット語(括弧内はモンゴル語))時期
トゥルバイフホショートテンジン・チューキ・ギャルポ
(シャジンバリクチ・ノミン・ハーン)1637年
オチルトホショートセチェン・ギャルポ1666年
ガルダンジューンガルガンデン・テンジン・ボショクトゥ・カン1678年
ツェワンアラブダンジューンガルエルデニ・ジョリクトゥ・ホンタイジ1694年
アユシ(アユーキ)トルゴートダイチン・アユシ・カン1697年