1958年1月20日に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。彼は軍在籍中に、空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。軍に在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、彼は回復し健康を取り戻した。
1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。そして8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー( ⇒Lisa Marie Presley)が生まれる。しかし4年後、ゴシップ雑誌の報道で浮気を疑われたことや、プリシラ自身もハワイの空手家と浮気したため離婚した。リサ・マリーはプリシラが引き取った。
歌手として有名になっていくにつれて映画会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給『Rino Brothers』を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも『Love Me Tender』に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。
陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネス界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は映画会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、『G.I. Blues』、『Blue Hawaii』、『Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)』等、話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、エルヴィスが望んだ歌なしの映画は1969年公開の『Charro(殺し屋の烙印)』のみであった。
この映画が製作された頃のエルヴィスは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、エルヴィスの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ、また、エルヴィスが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、彼の仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。
コンサート活動後も1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画『Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)』や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画『ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)』が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、エルヴィスの死去後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成した彼のライフ・ストーリー的映画『This Is ELVIS』が公開された。これらを合わせると、エルヴィスが主演した映画は計34本となる。グレイスランド(Graceland)
1974年8月19日、ラスベガス公演中のエルヴィスの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。彼女は自らが主演する映画『A Star Is Born(スター誕生)』での共演をエルヴィスに依頼し、エルヴィス自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。
1970年代半ば、エルヴィス自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、エルヴィスの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、8段だった空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。エルヴィスは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。死去する1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。
32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。
「やさしく愛して(Love Me Tender)」(1956年)
「さまよう青春(Loving You)」(1957年)
「監獄ロック(Jailhouse Rock)」(1957年)
「闇に響く声(King Creole)」(1958年)
「G・I・ブルース(GI Blues)」(1960年)
「燃える平原児(Flaming Star)」(1960年)
「嵐の季節(Wild in the Country)」(1961年)
「ブルー・ハワイ(Blue Hawaii)」(1961年)
「夢の渚(Follow That Dream)」(1962年)
「恋のKOパンチ(Kid Galahad)」(1962年)
「ガール!ガール!ガール!(Girls! Girls! Girls!)」(1962年)
「ヤング・ヤング・パレード(It Happened at the World's Fair)」(1963年)
「アカプルコの海(Fun in Acapulco)」(1963年)
「キッスン・カズン(Kissin' Cousins)」(1963年)
「ラスベガス万才(Viva Las Vegas)」(1964年)
「青春カーニバル(Roustabout)」(1964年)
「フロリダ万才(Girl Happy)」(1965年)
「いかすぜ!この恋(Tickle Me)」(1965年)
「ハレム万才(Harum Scarum)」(1965年)
「フランキーandジョニー(Frankie and Johnny)」(1966年)
「ハワイアン・パラダイス(Paradise, Hawaiian Style)」(1966年)
「カリフォルニア万才(Spinout)」(1966年)
「ゴー!ゴー!ゴー!(Easy Come, Easy Go)」(1967年)
「ダブル・トラブル(Double Trouble)」(1967年)
「ブルー・マイアミ(Clambake)」(1967年)
「ステイ・アウェイ・ジョー(Stay Away, Joe)」(1968年)
「スピードウェイ(Speedway)」(1968年)
「バギー万才(Live a Little, Love a Little)」(1968年)
「殺し屋の烙印(Charro!)」(1969年)
「トラブル・ウィズ・ガール(The Trouble with Girls)」(1969年)
「チェンジ・オブ・ハビット(Change of Habit)」(1969年)
「エルビス・オン・ステージ(Elvis: That's the Way It Is)」(1970年)
「エルビス・オン・ツアー(Elvis on Tour)」(1972年)
1969年から過密スケジュールでライヴ活動を再開する。しかし、それは彼を完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。死ぬ前の7年間に行ったライヴは1000回以上であり、平均すると一ヶ月におよそ35回のペースだった。1970年頃のエルヴィス
1960年代後半よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。