エルヴィス・プレスリー
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ヒット曲

ナンバー1ヒットは全18曲、合計80週間である。曲数はビートルズに次ぐ歴代2位である。週間数に関しては歴代1位である。ちなみに2位はマライア・キャリーの79週。(ビルボードに準拠)Elvis Presley by ⇒Bottelho



全米ナンバー1獲得曲

ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel) 1956年 8週間連続1位
ロックの始まりと言われている曲である。この曲に影響されたアーティストの数は計り知れない。

アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー(I Want You,I Need You,I Love You) 1956年 1週間1位

ハウンド・ドッグ(Hound Dog) 1956年 11週間連続1位

冷たくしないで(Don't Be Cruel) 1956年 11週間連続1位

ラヴ・ミー・テンダー(Love Me Tender) 1956年 5週間連続1位

トゥー・マッチ(Too Much) 1957年 3週間連続1位

恋にしびれて(All Shook Up) 1957年 9週間連続1位

テディ・ベア(Teddy Bear) 1957年 7週間連続1位
エルヴィスは「なぜこんな曲が7週No.1になったのか?」と疑問に思ったという

監獄ロック(Jailhouse Rock) 1957年 8週間連続1位

ドント(Don't) 1957年 5週間連続1位

冷たい女(Hard Headed Woman) 1958年 1週間1位

恋の大穴(A Big Hunk o' Love) 1959年 2週間連続1位

本命はお前だ(Stuck On You) 1960年 4週間連続1位

イッツ・ナウ・オア・ネバー(It's Now or Never) 1960年 5週間連続1位

今夜はひとりかい?(Are You Lonesome Tonight?) 1960年 6週間連続1位

サレンダー(Surrender) 1960年 2週間連続1位

グット・ラック・チャーム(Good Luck Charm) 1961年 2週間連続1位

サスピシャス・マインド(Suspicious Minds) 1969年 1週間1位


その他

好きにならずにいられない(Can't Help Falling in Love) 1961年 全米2位、全英1位

心の届かぬラヴ・レター(Return to Sender) 1962年 全米2位、全英1位

イン・ザ・ゲットー(In the Ghetto) 1969年 全米3位、全英1位


Follow That Dreamレーベル

エルヴィスがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたエルヴィスの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した「Follow That Dream」レーベルである。

このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファン・クラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾「Barbank'68」(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはエルヴィスのコンサートを体験することが出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。


軍歴

1958年1月20日に、エルヴィスはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。彼は特例措置を受けることなく、通常の兵士として西ドイツで勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。彼は軍在籍中に、空手黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。徴兵命令が来た際、エルヴィスは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。軍に在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師は彼の声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、彼は回復し健康を取り戻した。

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父を説得して、未成年であったプリシラとグレースランドで同棲していた。そして8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー( ⇒Lisa Marie Presley)が生まれる。しかし4年後、ゴシップ雑誌の報道浮気を疑われたことや、プリシラ自身もハワイの空手家と浮気したため離婚した。リサ・マリーはプリシラが引き取った。


映画とエルヴィス

歌手として有名になっていくにつれて映画会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、映画館に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給『Rino Brothers』を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも『Love Me Tender』に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。

陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネス界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は映画会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、『G.I. Blues』、『Blue Hawaii』、『Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)』等、話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、エルヴィスが望んだ歌なしの映画は1969年公開の『Charro(殺し屋の烙印)』のみであった。

この映画が製作された頃のエルヴィスは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、エルヴィスの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ、また、エルヴィスが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、彼の仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。

コンサート活動後も1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画『Elvis: That's the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)』や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画『ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)』が製作され、好評だった。それ以降は映画の公開はなかったが、エルヴィスの死去後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成した彼のライフ・ストーリー的映画『This Is ELVIS』が公開された。これらを合わせると、エルヴィスが主演した映画は計34本となる。グレイスランド(Graceland)

1974年8月19日、ラスベガス公演中のエルヴィスの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki