ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地。旧市街(Old City)と呼ばれ、嘆きの壁、聖墳墓教会、岩のドームといった各宗教ゆかりの施設を訪れる人々が絶えない。嘆きの壁の上は神殿の丘と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサー・モスクやイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。岩のドームにはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべての魂がここに集結してくるとされる「魂の井戸」がある(イスラム教がユダヤ教徒の伝統に従い、ユダヤ教最高の神殿跡をイスラム教寺院に改造できる根拠は、ムハンマドおよびイエス・キリストはユダヤ教徒にも信頼されうる預言者であって、イスラムがユダヤ教の伝統と矛盾せずにかつユダヤ教を凌駕しているとの主張を示している。ここにパレスチナ問題における宗教的側面での問題がある)。旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年に世界文化遺産に登録された(ヨルダンによる申請)。
西側は新市街と呼ばれる近代的な都市で、ヘブライ大学、イスラエル博物館、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、イスラエルの政治・文化の中心である。
テルアビブ・エルサレム間は高速道路で1時間、エゲッドバスが急行で1時間3本程度テルアビブの中央バスセンターから出ている。 エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはエルサレム中央バスセンターに発着し、そこからヨルダン川西岸を抜け、死海沿岸を通りゴラン高原方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通ってネゲブ方面へ南下するものもある。鉄道は、エルサレム・マルハ駅とロッド、テルアビブを1時間強で結ぶ路線がある。2008年には市内を循環する新交通システムが開通する予定。
歴史主要記事: ⇒History of Jerusalem
紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていたパレスチナにおいて古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。その後、3代ソロモン王の死後に王国は南北に分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。
その後、新バビロニア王国・アケメネス朝ペルシア・アレクサンドロス帝国・セレウコス朝シリアなどの支配を受け、一時はユダヤ人がハスモン朝を建てて自立するものの、まもなくローマ帝国の支配下におかれた。
638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれ、7世紀末頃、岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回するが、まもなく十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した。そして、1099年にエルサレム王国を成立させた。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝のサラディンがエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のカーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。しかし、1239年にはダマスクスのナースィルによってエルサレムが奪回されたため、その統治は短期的なものに終わった。
第二次世界大戦後の1947年、国連案によって都市は旧市街を含む東エルサレムと、西エルサレムに分断された。第一次中東戦争、1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンによって占領されていた東エルサレムは現在イスラエル管理下にある。イスラエルは東エルサレムとの統合を主張している。1980年にイスラエル議会により、エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとされたが、国連ではその決定の無効が決議された。
エルサレムは単に地理的にパレスチナの要所であるのみならず、アブラハムの宗教にとっての聖地でもある。
ユダヤ教にとっては、エルサレムはユダ王国の首都であった場所であり、その信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた場所である。