現在ウクライナと呼ばれる地は古代において多数の遊牧民が割拠していたが、中世にはルーシ(またはキエフ・ルーシ)の下で統一され大国となった。しかし、13世紀半ばのモンゴル帝国の侵入により解体され、その一部の公国は隣国であるリトアニア大公国やポーランド王国の傘下に入り、キエフ・ルーシの東部はキプチャク汗国に属した。
キエフ・ルーシの解体後、その一公国であったモスクワ公国は後にロシア(ルーシのギリシャ語読み)帝国へと変遷をとげる。16世紀から18世紀にかけてコサック国家が存在していたが、18世紀末にはロシア帝国に併合された。ロシア内戦期には複数の"独立国家"が誕生したが、1919年に成立したウクライナ社会主義共和国が全土を制圧。1922年にはソ連に加盟した。ソ連時代には別枠で国際連合(国連)の原加盟国であった。1991年、独立を宣言した。
詳細はスキタイ、サルマティア人、キエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国をそれぞれ参照
紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、ギリシャ、ローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。
4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラブ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはユダヤ教の遊牧国家であるハザール汗国の支配下にあった。
9世紀頃、首都をキエフとする最初のスラヴ人国家、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)が誕生した。この国家は現在のウクライナ・ベラルーシ・ロシアの源流だと考えられている。史料によると、現在のスウェーデン一帯からやって来たヴァイキング(ヴァリャーグとも呼ばれる)たちを公(Князь:王のこと)に据えることによって建国されたと記されている。ヴァリャーグは、もともとこの地の住民であったウクライナ人(当時のルーシ人)と次第に同化していき、ウクライナ史上で初めての強大な王朝であるリューリク朝が繁栄した。
ギリシャとの繋がりが強かったキエフ・ルーシでは988年にヴォロドィーメル聖公がキリスト教を受け入れ、ルーシ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフではキエフ大公(Великий князь Ки?вський)とキエフ府主教が近隣の諸公国を支配下に置き、10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の1つとなった。
しかしながら、ヤロスラフ賢公亡き後12世紀以降、内部抗争とペチェネグ人やポロヴェツ人などのトルコ系とされる遊牧民族やハザールなどの絶え間ない攻撃により、キエフ・ルーシは弱体化した。さらに、1240年にはモンゴル帝国の侵略を受け、キエフをはじめとするほとんどの都市は壊滅し、キエフ大公による支配体制は滅亡、キエフ公国やウラジーミル大公国など、すべての公国及び共和国はキプチャク汗国に隷属した。
キエフ・ルーシの伝統と文化、そしてキエフ大公の称号を受け継いだのはキエフの西部にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国であった。その大公国は東ヨーロッパの諸国と手を結び、キプチャク汗国と戦いつづけた。ハーリチの大公であるダヌィーロ一世はローマ教皇から王の冠を受け、ルーシの初めての王となった。しかし、その国は王位継承の問題によって内乱に落ち、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国とポーランド王国によって征服された。