ウィリアム・トムソンは1824年6月26日、北アイルランドのベルファストで二人兄弟の次男として生まれた。父親のジェームズ・トムソンはスコットランド系アイルランド人の農家の生まれで、教師として働く傍ら独学でグラスゴー大学へ入学し、ベルファスト大学の数学教授となった。トムソンは兄とともに父から家庭で教育を受けた。兄のジェームズ・トムソンも後に物理学者となり、圧力による氷点降下や水の三重点を発見している。父は1832年にグラスゴー大学へ赴任するが、幼い頃から神童ぶりを発揮していたトムソンは、その2年後わずか10歳でグラスゴー大学への入学を許可された。1841年からはケンブリッジ大学で学び、1845年に次席で卒業した。その後パリのルニョーのもとで学んだ。そして翌1846年に22歳の若さでグラスゴー大学の教授に就任し、イギリスの大学で初めて物理学の研究室を作った。
ケンブリッジ大学在学中の1842年からトムソンは独自の研究を開始した。この年発表した、熱の分布と静電気力の分布の比較研究による論文は、電磁場と非圧縮性弾性体の間の類似点を指摘していた。1845年の論文では、電磁誘導を何らかの媒体(現在「場」と呼ばれているもの)によるというファラデーの考えに数学的な表現を与えた。これらは後のマクスウェルに重大な示唆を与えるものだった。
1849年から10年間、トムソンはファラデーが発見した常磁性と反磁性、およびその理論を一般化するための研究を行った。ここで透磁率と磁気感受率という概念を導入し、磁石のもつ全エネルギーを表す式を導いた。電気においては、電流の流れる回路のもつエネルギーを表す式を得、1853年に振動回路の理論を発展させた。これは1857年に実験で確かめられ、後にヘルツによって電波を発生させるのに使われた。
1851年、ヴェーバーが国際単位系の電磁気への拡張を提案したとき、トムソンはこれを受けてダニエル電池の起電力やジュールの法則の計算を行い、さらに英国学術協会に電磁気の標準を決定するように働きかけた。
1845年、ケンブリッジ大学を卒業したトムソンは、パリのルニョーのもとで実験技術を磨き、同時にクラペイロンの論文を通じてカルノーの研究を知った。トムソンはルニョーの実験結果とカルノーの研究結果を発展させ、1848年に、「温度が物体中のエネルギー総量を表す」という絶対温度の概念を導いた。この単位は後に彼にちなんでケルビン(K)と呼ばれるようになった。また熱素説が残っていた当時、ジュールが発表していた「熱はエネルギーの一形態である」という論文を高く評価し、1851年に「熱を全て仕事にすることはできない(トムソンの原理)」ならカルノーの理論とジュールの法則が矛盾しないということを示した。これは現在熱力学の第二法則と呼ばれている。
同じく1851年からは熱電気の研究を行い、「温度勾配がある物質に電流を流すと熱の移動が起こる」というトムソン効果を発見した。
1847年のオックスフォードで初めて会ってから数年間、トムソンとジュールは共同で研究を行った。1852年、二人は細いノズルから気体を噴出させる実験を行い、ジュール=トムソン効果を発見した。
1862年、トムソンはフーリエ級数を用いて球の冷却速度を計算し、地球の年齢が数千万年、長くても4億年を越えることはないと結論した。これは地球全体がどろどろに融けた状態から現在の温度になるまでの時間を求めたものであった。しかしこの論文は地球はできてからは冷めるだけであるという前提に立っており、当時発見されていなかった放射性元素の崩壊熱を考慮していなかったため、後にラザフォードによって計算された正しい値からは大きくずれていた。
1863年にトムソンは、地球の形状が太陽や月の潮汐力によって変形していること(地球潮汐)を利用して地球のかたさを求めた。
トムソンはケンブリッジ大学在学中はスポーツにも取り組み、オックスフォード大学とのボートレースにも参加した。特にヨットに熱心で、海に関するあらゆるものに関心を持った。
トムソンはキリスト教(非国教派)の敬虔な信者であった。以下の言葉は1889年5月23日のthe Christian Evidence Societyのannual meetingでのものである。
関連項目
トムソンの原理(ケルヴィンの原理、熱力学の第二法則)
トムソン効果
ジュール=トムソン効果
ケルビンの渦定理
ケルビン(温度の単位)
マイケル・ファラデー
ジェームズ・クラーク・マクスウェル
ニコラ・カルノー
ジェームズ・プレスコット・ジュール
ジョージ・ガブリエル・ストークス
カテゴリ: イギリスの物理学者 | 19世紀の自然科学者 | ベルファスト出身の人物 | 1824年生 | 1907年没
更新日時:2008年11月12日(水)03:41
取得日時:2008/11/14 04:45