インドの仏教
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インド仏教の特色

インドにおける仏教の特色は、きわめて認識論的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。

さらに、修行によって得られた智慧が重要な問題として意識される。その流れは中観派瑜伽行唯識学派という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。

智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどないと思われるが、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。インドの仏教の最終形態としてタントラ密教に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものと考えられる。

また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは南伝仏教などにも伝承されているようである。

しかし、中国日本ではまったく異なった形態をとっている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。


インド仏教の歴史

13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、
開教から教団分裂まで - 約100年間

部派仏教の成立 - 前3世紀ごろ

大乗仏教運動の興隆 - 前1世紀ごろ

密教の成立 - 7世紀ごろ

の4つに分けられる。

しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、中観派との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられる。


最初期

英語では最初期の仏教のことをprimitive Buddismと呼んでいる。日本では、原始仏教とか根本仏教と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、いわゆる釈迦)とその直弟子の時代を指すか、アショーカ王時代までを指す。釈尊やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、ガンジス河中流域であった。釈尊の晩年に、ようやく西方インドのアヴァンティ国に発展した。釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡はパーリ語聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドのプラークリット語の一方言(いわゆるパーリ語)で聖典の一部が成立し、のちに聖典用語となった。

釈尊が亡くなってほどない頃、ラージャグリハ王舎城)郊外に500人の比丘が集まり、最初の結集(けちじゅう)が行われ、経典とがまとめられた。座長は摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、経は阿難(あなん、アーナンダ)、律は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。

仏教が急激に広まるのは、マウリヤ朝第3代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部大衆部根本分裂した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後200年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。


部派仏教

根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方のガンダーラからアフガニスタンへ、さらに中央アジアへと教線は広がっていった。前3世紀中頃、スリランカのデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大精舎が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。

しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後300年の初めに上座部は、説一切有部と雪山部に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。


大乗仏教運動の興隆

これらの比丘たちの教団とは別に、在家者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた仏塔(ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「仏法」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこにレリーフで釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の布教活動を専業としていたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。

さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から輪廻を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、本生話、すなわち前生の話がまとめ上げられる。そこには、インド各地に伝えられた伝説の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は慈悲による利他行を平易に説いたものであった。

信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく悟りを得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。(もともと「仏陀」とは「目覚めた者」の意であった)最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった錠光仏であり、直近の未来に仏となる弥勒菩薩への崇拝である。この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが信仰となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い(勧請)、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる(回向)によって、自らも救済されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、出家して比丘とならなくても、広く衆生を救いとるという大乗という概念が登場するのである。

このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く(対機説法)というものであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki