イラン・イラク戦争
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経過


イラクの奇襲

1980年9月22日未明、イラク軍がイランの空港を急襲して爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は始まった。準備の面で勝るイラク軍は、革命で混乱したイラン軍の指揮系統などの弱点をついてイラン国内に侵攻、11月にはイラン西部国境地帯の一部を占領した。

イランの軍備は長らく親米政権であったためにほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となった為、兵器の整備や部品の調達が難しくなっていた。

イランのイスラム革命に介入しようと、米国欧州ソ連などはイラクを積極的に支援した。革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、またイランのイスラム革命精神の拡大を恐れた事も関係した。アラブ諸国は世俗的な王政・独裁制が多い為、イランのイスラム革命が輸出されることを恐れてイラクを支援した。特にクウェートはペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援し、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。ソ連は、中東地方に同盟国を作る必要から、また国内へのイスラム革命の飛び火を恐れて、イラクを支持した(ソ連は同時期にアフガニスタンへの侵攻を行っている)。イラクを全面的に支援しているクウェートの収入源は石油であるが、イランの鼻先を通るクウェートのタンカーにはソ連の護衛が付いており、イランには手出しができなかった。米国は、反イランの論調を受けてイラクに対する武器の輸出や経済援助などを行ったが、裏では革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環として、また、ニカラグア内戦を戦う傭兵コントラへの資金援助のために、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った(イラン・コントラ事件)。

東西諸国共に対イラン制裁処置を発動した為、物資、兵器の補給などが滞り、また革命による混乱も重なって人海戦術などで応じるしかなかったため、大量の犠牲者を出した。その中で北朝鮮が秘密裏に武器と兵員を送っている。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されており、このときからイランと北朝鮮の親密関係が構築された。しかし、全般的には劣勢であり、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。


形勢の逆転

イラクの予想よりもイラン民衆の抵抗は強く、またイラク軍部と政権政党であるバアス党の意見の食い違いなどから戦線は膠着した。さらに、完全に孤立したように見えたイランであったが、アラブ全てを敵に回しているイスラエルが援助を始める。米国製の部品をイスラエルが代わりに調達するなどしてイランを支えた。加えて、イスラーム重視政策を採ったシリアリビアがイランに味方した。

1981年6月7日、イスラエル空軍機はヨルダン・サウジアラビア領空を侵犯してイラク領に侵入し、イラクがフランスの技術で建造していた原子力発電所(未稼働)を空爆して破壊した(イラク原子炉爆撃事件)。イラクはこのため、イスラエル方面の防空を強化しなければならなくなった。

1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出ができなくなった頃から戦況は動き始める。5月24日にイランはホラムシャハル港を奪回、3万のイラク兵を捕虜とした。6月には領土ほぼ全域を奪還し、イラク国内への攻勢に出る。イランの勝利もありうると考えたイラク側が休戦を持ちかけるきっかけとなったが、巻き返したイランはフセイン体制打倒に固執し、戦争は終結しなかった。11月にはイラク軍がイランのカーグ島石油基地を破壊した。


沈静化

この年、シリアの占領下に置かれていたレバノンイスラエル軍が侵攻し、レバノン内戦が再燃した。このため欧米の目は急速にレバノンへ向き、火消しに躍起になった。米国はフランスと共に軍をレバノンへ派遣した。なお、このレバノン内戦の裏ではイスラエルとイランの間で密接な連絡が行われていた。また、82年には英国フォークランド戦争、米国は1983年10月にグレナダ侵攻、ソ連もアフガニスタンで手間取った為、世界の目はこの戦争から離れた。しかし、83年にレバノンの米仏軍のキャンプが自爆テロ攻撃を受けた為、報復にシリア軍を艦砲射撃して1984年2月に撤退した(アメリカ大使館爆破事件)。


再燃

米軍撤退の直後、イラン・イラク間の戦闘が再燃した。3月に国際連合の調査によりイラクが化学兵器を使用していることが判明すると、戦争に対する世界的な非難が高まった。タブンなどの毒ガス兵器がイラクによって使用されたが、いずれも散発であったため、戦況にはほとんど影響しなかったと言われている。11月にイラクは米国と正式に国交を回復し、援助は公式なものとなった。

1985年3月、イランとイラクは相互に都市をミサイルで攻撃しあった。イラクはソ連のスカッドを改良した「アル・フセイン」をイランの都市へ撃ち込んだが、これによってイランはミサイル開発にこだわるようになる。5月にはイラク空軍機がテヘランを空襲。1986年6月にはイラク軍のミサイルがイランの旅客列車に命中した。もはや戦争は互いに一般国民を殺戮しあう泥仕合と化していた。


米国の介入アーネスト・ウィル作戦で出動した米海軍アイオワ級戦艦ウィスコンシン

両国が殺戮の応酬を繰り返す中の1986年3月、イランを支援し続けるリビア(リビアは当時チャド内戦にも介入していた)と米軍機がシドラ湾で交戦、米国は4月にリビアを攻撃した。しかし12月、アメリカでイラン・コントラ事件が暴露されてしまった。大統領ロナルド・レーガンは窮地に立たされると、取引を持ちかけたのはイランだとして激しく非難した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki