イラクと中東諸国との関係は多様である。
1990年に入ってイラクは、1980年から1988年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。
エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。
ところがイラクとエジプトの関係は、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアが深く関与したレバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアの態度を貫いたキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。
イラクは中東戦争に際しては1948年、1967年、1973年に参戦するなどイスラエル問題について強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のレーガン米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルによって攻撃したこともあった。
アメリカの侵攻により、新生イラク政府は対外的には米国の傀儡的な印象を強く与えているが、米国が敵視するイランと友好関係を演出しているなど、わかりにくい部分もはらんでいる。
2008年でイラク人の治安部隊が56万6千人(陸軍のみ)。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。ほかにイラク内務省の書類では警察官が100万人以上いるとされている。
クルド地方3県(エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県(ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県)及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会(スンニ派)が治安維持に貢献しているとされる。
地理イラクの国土(中央) 高度分布を示した。ティグリス川とユーフラテス川にそって広大な低地が広がっていることが分かる。
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。
イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境(北緯33度22分、東経38度47分)である。北端はトルコとの国境(北緯37度23分、東経42度47分)で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口(北緯29度53分、東経48度39分)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境(北緯29度3分、東経46度25分)の一部である。
イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。二本の大河はクルナの南で合流し、シャッタルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り、ペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バクダットと同緯度では400mから500m程度である。
イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなだらかでなくなっているのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のハジ・イブラヒーム山 (3600m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。
このような地形が形成されたのは、イラクの国土がアラビアプレートとユーラシアプレートにまたがっているからである。アラビアプレートはユーラシアプレート側に移動している。イラクとイランの国境線、さらにペルシャ湾北岸にわたって褶曲山脈であるザグロス山脈が形成されたのは、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込んでいるためである。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰が複数存在する。
ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。
ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びるハンマール湖が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ(沼沢地アラブ)と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。
イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。