1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。
19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーヴル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。
一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のアミール(首長)のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、大戦以前の1899年に既にイギリスの保護国となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、1961年に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め,1932年にはイラク王国として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成したが、同年カーシム准将率いる自由将校団のクーデターによって倒され、共和制となった。そのカーシム政権も1963年にバアス党将校団のクーデタで倒れる。かくしてバアス党が権力を握り、1968年にアフマド・ハサン・アル=バクル、続いて1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任した。
1984年にイラクはアメリカと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時のアメリカ政府の、レーガン政権もこれを黙認した。
1990年に石油資源を求め隣国のクウェートに侵攻、国連の決定による1991年の湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための経済制裁によって市民は貧困に喘いだ(イラク武装解除問題)。
アメリカの侵攻と新政府イラクをパトロールするアメリカ軍(2005年6月)
2003年3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導によるイラク戦争が起こり、フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。その後アメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って連合国暫定当局(CPA)によって統治されていたが、2004年6月28日をもって暫定政権に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は2005年1月30日にイラクで初めての議会選挙を実施し、3月16日に初の国民議会が召集された。