2003年3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導によるイラク戦争が起こり、フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。その後アメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って連合国暫定当局(CPA)によって統治されていたが、2004年6月28日をもって暫定政権に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は2005年1月30日にイラクで初めての議会選挙を実施し、3月16日に初の国民議会が召集された。この議会で準備が進められた移行政府は4月28日に発足して新憲法草案の政策に取り掛かり、10月25日に憲法草案を賛成多数で可決承認させ、12月15日に正式政府発足に向けて2度目の議会選挙を行った。しかし、政権を巡りスンニ派とシーア派とクルド人勢力と3大勢力の対立があり争いが発生し、実質は内戦状態・無政府状態であるとされ、1日あたり約60人のイラク人が犠牲になっていると言われている。
2006年4月22日にシーア派議員連合のイラク統一同盟がヌーリ・マリキを首相に選出、5月20日に米国のイラク民主化プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足した。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。
サッダーム政権当時の政治は、革命指導評議会(RCC)が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、国軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる一院制の国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。
イラクの新憲法は、2005年10月15日の国民投票での承認により成立した。
国家元首の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派(スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが国民議会によって選ばれる。評議会は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。
行政府の長である首相は、国民議会議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名(首相・副首相を除く)。
憲法は、立法府について両院制を定めるが、上院は未成立。下院である国民議会は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。政党(政党連合)別獲得議席数は以下の通りである。
統一イラク同盟: 128 - シーア派
クルディスタン同盟: 53 - クルド人
イラク合意戦線: 44 - スンナ派
イラク国民リスト: 25- リベラル・世俗主義
国民対話イラク戦線: 11 - スンナ派
その他7党: 14
サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。陪審制を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。
下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。
治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。
非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別裁判所の管轄となった。また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命裁判所が裁いた。
イラクと中東諸国との関係は多様である。
1990年に入ってイラクは、1980年から1988年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。
エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。
ところがイラクとエジプトの関係は、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアが深く関与したレバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアの態度を貫いたキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。