ブリテン島にキリスト教が初めて到来したのはローマ帝国時代の紀元200年ごろのことであると思われる。以後、キリスト教はウェールズからスコットランド、アイルランドへと根を下ろし、ローマ人の撤退後も残っていた。が、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教はカンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であるとみなしている。彼はグレゴリウス1世教皇の命により、ケントのエセルベルト王のもとへと派遣された宣教師であった。664年におこなわれたホイットビーの教会会議ではノーザンブリアのオスウィウの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。
ヨーロッパの諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。
王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのはヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が教皇に婚姻の無効を宣言するよう頼んだにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことがひきがねとなった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑などもからんだ複雑な政治問題であった。
ヘンリー8世は1527年に教皇に対してキャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返しおこなわれた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献をもとに霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめて教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに、10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議をおこなった。しかし、ここにいたってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。
1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座につくと、先の裁定に従ってクランマーによって王の婚姻無効が認められ、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1536年に最初の国王至上法を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。英国の教会を自由に出来る地位についたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を王に感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイギリスの修道院は破壊され、荒廃した。
ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者(Defender of the Faith)」という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動がどっとイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の6か条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。と、同時に教会分裂がおきれば宗教改革運動のうねりが到来することは不可避であることを意味している。
変革を嫌った父ヘンリー8世と違っていた息子エドワード6世のもとで、イングランド教会は最初の変革がおこなわれた。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『英国国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂がおこなわれた。
エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、ふたたびイングランドをカトリックに戻そうとした。彼女はこれに反対する者への徹底的な弾圧や処刑すら辞さなかったため「ブラッディ・メアリー」(血染めのメアリー)と呼ばれたことで知られる。しかし、この復帰運動も過激すぎたため、メアリー1世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。
真の意味でのイングランド国教会のスタートは1558年に早世したメアリー1世の後を継承したエリザベス1世の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。
イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。エリザベス1世の選んだ道は「中道」(Via Media)とよばれるもので、イングランドに混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道を選んだ現実的な政策であった。