変革を嫌った父ヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革が行った。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『英国国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂が行われた。
エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。彼女はこれに反対する者への徹底的な弾圧や処刑すら辞さなかったため「ブラッディ・メアリー」(血染めのメアリー)と呼ばれたことで知られる。しかし、この復帰運動も過激すぎたため、メアリー1世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。
真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に早世したメアリー1世の後を継承したエリザベス1世の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。
イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。エリザベス1世の選んだ道は「中道」(Via Media)とよばれるもので、イングランドに混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道を選んだ現実的な政策であった。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。
イングランド国教会主流派と対立した人々のなかには、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てるものも多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派にバプティスト・メソジストなどがある。
現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすとともに、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的にのりだし、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。ただしローマ・カトリック側は、1896年教皇レオ13世の大勅書(Apostolicae Curae et Caritatis)で聖職者の叙階が無効と宣言しており、東方教会とは若干差別がある。
近年では1994年3月12日にイングランド国教会で最初の女性司祭が叙階され、話題となった。
関連項目
世界の聖公会の各組織は、アングリカン・コミュニオン参照。
聖者の一覧
ベーダ・ヴェネラビリス
オックスフォード運動
ジョナサン・スウィフト:イングランド国教会とローマ・カトリックとの決別と清教徒との相克を風刺した『桶物語』を書いた。
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更新日時:2008年10月12日(日)06:09
取得日時:2008/10/14 00:18