歴史学等では、歴史上の人間としてのイエスを指す場合、「ナザレのイエス」と呼ぶことがある。これは、『福音書』において、イエスが「ナザレ人」と呼ばれているためである。
西ヨーロッパの宗教画やキリスト彫像は北方ヨーロッパ系の白人の痩せた男性のイメージで作られるのが一般である。しかし現在ではコーカソイドではあるが中近東から地中海沿岸一帯にかけて分布する、いわゆる地中海人種であったと想定されており、北方ヨーロッパ系の形質の身体であったとは考えにくい。
様々なイエス・キリストの把握がある。この項目では、イエス・キリストを、救世主であり、父と子と聖霊を三位一体とみなすキリスト教における把握と、それに関連して、歴史的なイエス・キリストの把握像を概観する。イスラム教やユダヤ教における位置付けや把握は、それらの宗教での説明に譲る(キリスト教でも、三位一体教義を認めない宗派があるが、これらも、ここでは広義のキリスト教と考える)。
キリスト教におけるイエス・キリストの把握については、以下の記事を参照のこと。
新約聖書学等、文献学的手法により描写する歴史的なイエス像は、「史的イエス」の項を。
歴史的観点からみた信仰の対象としてのイエス像とその歴史的受容は、「新約聖書とイエスの歴史的受容」の項を。
信仰の対象として、いかに信じられ、描写されてきたかは、「救世主イエス・キリスト」の項を。
イスラム教においても、ユダヤ教の預言者とともにイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れている。イスラム教では、「マルヤムの子イーサー(???? ??? ????, ??s? ibn Maryam、マリアの子イエス)」と呼ばれるが、『クルアーン』の記述によればアッラーフの奇蹟によってマリアの体内に創造された特殊な出自であるが、他の預言者同様「アーダムの子=人間」のひとりであって、決して「アッラーフの子キリスト」とは認められていない。
『クルアーン』はイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れているため、イーサー(イエス)をたびたび記載している。 しかしアッラーフは人類を含め一切の被造物を超越した存在でありかつ創造主であり、アッラーフ自身が「子を産みもしなければ産まれもしない」ために、イーサーが「アッラーフ」であることも「アッラーフの子」であることも明確に否定している。[2]
ただし上で記したように生前のイエスは「神の子」を比喩として用いており、対象も彼自身に限定されるものではなかった。また、ムハンマドが批判した主流派キリスト教でも、「子」という言葉は霊的なものとされており、生物学的な行為によるものではないとされている。なおムハンマドは、主流派キリスト教を批判するに当たりマリア崇敬を三位一体と混同していた。[3]
さらにイスラム教では、イーサー(イエス)は十字架にかかっておらず(別人が十字架で磔にされたので)、預言者としての使命を果たして生涯を全うしたとされる。[4]しかしながら、イーサーは救世主・メシア(マスィーフ)であることは認められており、最後の審判に先立って出現する反キリストであるダッジャールを討伐するため地上に再臨するとされているため、「アッラーフの救世主イーサー(???? ?????? ????, ??s? al-Mas?? All?h)」という尊称も一般的である。また預言者ムハンマドは、昇天の旅であるミウラージュの奇蹟において天使ジブリール(ガブリエル)の導きにより天上でムーサー(モーセ)とイーサー(イエス)の2人の預言者に会っている。
イーサーは神の啓示を受けた通常の預言者(ナビー)であるのみならず、使徒(ラスール)としても『クルアーン』やハディースなどでは重視して言及されている。イスラム教においてもヌーフ(ノア)、イブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーセ)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの1人に数えられ、イエスは大変に重要な地位を占めている。
⇒聖クルアーン:3. イムラーン家(アーリ・イムラーン)章
⇒聖クルアーン:19. マルヤム章
イエスはユダヤ教では一般に偽メシアとして認識されている。
異端とされるグノーシス主義では、天地を創造した造物主を劣悪な神と見なし、これとは別に善なる「至高者」が存在するという神話をもち、キリスト教的グノーシス主義では、至高者の下にある諸の神的存在(アイオーン)の中から、人間世界に派遣された救済者・真実開示者が歴史上の「イエス」であると考え、イエスは、人間に内在する「至高者の要素」を認識すること(グノーシス)による救済を説いたと信ずる。この意味で、イエスはやはり「メシア」(救世主)である。
イエスは、至高者から生じたアイオーンであり、霊なる存在で、劣悪な造物主の手によるこの世の肉体とは本来無縁であるが、人間に働きかけるために、仮に肉体をまとって、この世に下ってきたという仮現説(ドケティズム)の立場でイエスの存在を理解する。ただし、「地上のイエスの振る舞いは、人間の目にそのようにみえただけの幻の如き存在である」、あるいは「肉体をもたないイエスが受難することはなく、十字架に掛けられたのは別人であった」などという、イエスの人間化を完全に否定する「狭義の仮現説」がある一方、「人間に働きかける手段として、人間の肉体を受けた」として「受肉」「受難」を部分的に認める立場を含む広義の仮現説もあり、イエスの受肉に関する理解はキリスト教グノーシスの各派により多少異なる。
イエス・キリストが語り手や主人公となるグノーシス文書が多数あり、原始キリスト教は、これらを異端の書だとして正典に認めなかった。