「正しいこと」というのはマタイの中では重要な概念であり、「神に従うこと」と同義である。マタイは同時に予言が「成就した」という言い方をするが、イエスが正しいことを行うことこそが神の意思の成就であるという位置づけをしているといえる。
またヨハネが罪のきよめのしるしとして行っていた洗礼をなぜ罪のないイエスが受けたのかという疑問に対しては伝統的に次のような答えが与えられてきた。
第一はイエスが、人間にとって洗礼がいかに大切なものであるかを示すために受けたというもの。 第二はイエスは全人類の罪をあがなうという大きなプロセスの一部として洗礼を受けたというもの。
それ以外にもキリスト理解の差によってさまざまなキリスト教派において異なる捉え方がされている。マルコやルカと異なり、マタイはイエスがすぐに水からあがったことを強調する。ロバート・ガンドリー(Robert H.Gundry)は著作の中で、ヨハネの洗礼ではそのあと、川の中で罪の告白をするという流れになっていたが、イエスは罪を犯していないため、すぐに川からあがったということが強調されているのだと解説している。
キリスト教のほとんどの教派ではイエスの洗礼が大切な出来事としてとらえられているが、イエスの洗礼になんら意味を認めないグループもある。たとえば中世のボゴミル派では洗礼者ヨハネは悪の手先であったと考え、その洗礼も被造物の穢れをイエスに及ぼそうとする邪悪な試みだったとみなしていた。このような考え方は珍しいものだが、キリスト教の多くの教派の洗礼の儀式で、ヨハネのように川で行う洗礼のやり方を採用せず、マタイ28章のくだりや『使徒行伝』にあらわれるような洗礼の儀式を形式として用いていることは興味深い。というのもキリスト教のグループの中には再洗礼派のようにイエスが受けた洗礼のやり方を忠実に守るべきだと考えるものもあるのだ。またこのようなグループではイエスが30歳で洗礼を受けた故事から幼児洗礼をも否定している。
福音書によれば、イエスが洗礼を受けると天が開いて、神の霊が鳩の形でくだり、イエスが神の愛する子であるという声が聞こえたという。天が開いて声がするという表現はエゼキエル書の冒頭からとられたものであろう。古い写本では「天が開けて」という部分が「天が彼に開けて」という表現になっており、心の中の出来事という印象を与える。もしそのように捉えれば、なぜルカでは居合わせた群集の反応を一切書いていないのかということも説明がつく。この声は鳩の形でくだる霊とともに新約聖書中において三位一体のシンボルをもっとも明快に示す箇所という見方がされてきた。しかし学者たちはキリスト教の中で聖霊という概念が主流になるのはマタイ福音書が書かれてから数世紀後のことであるという。ルカでは鳩の形をした霊という表現がはっきり用いられているが、マタイの言い回しはそれよりもあいまいなものである。福音書の著者たちが鳩というシンボルで何を表そうとしていたのかということは聖書学者たちの研究の対象となってきた。
たとえばハワード・クラーク(Howard W Clarke)は『マタイ福音と読者たち』でノアが新しい土地を見つけるために鳩を放したことから、これは新生のシンボルではないかと考える。またオルブライト(W.F Albright)とマン(C.S. Mann)は著書『マタイ』の中で、ホセア書において鳩がイスラエルの象徴として用いられていることに注目している。ギリシャ文化では鳩は清純さの象徴であると同時に愛の神アフロデテの象徴とされていた。福音記者が鳩にこめた意味はもはや知りえないが、聖霊を鳩で表現する方法がこの箇所に由来していることは間違いがない。ウィキメディア・コモンズには、 ⇒イエスの洗礼 に関連するマルチメディアがあります。 カテゴリ: 福音書 | イエス・キリスト | バプテスマ
更新日時:2008年1月7日(月)21:15
取得日時:2008/10/02 04:56