アレクサンドル・スヴォーロフ
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第一次露土戦争

ポーランド侵攻と並行して、ロシアはオスマン帝国との間に露土戦争を行っていた(第一次露土戦争)。ポーランド制圧を終えたスヴォーロフはこの方面に派遣され、1773年4月17日、アストラハン歩兵連隊とコサック騎兵連隊の指揮を引き継いだ。スヴォーロフの部隊はサルティコフ中将の第一軍の隷下に置かれ、全軍の右翼についた。

1773年6月28日、スヴォーロフはドナウ川近郊に築かれたオスマン軍野営地を奇襲して勝利した。オスマン軍はドナウ川を越えて撤退し、ロシアはルーマニアを制してトルコ侵攻の橋頭堡を築いた。1774年1月27日、スヴォーロフはワルワラ・イワノヴナ・プロソロスカと結婚した。

4月、スヴォーロフはバルカン半島に侵攻し、6月19日、コズルドジで8,000名の軍で40,000名のオスマン軍を撃破した。これはオスマン帝国にとって決定的な打撃となった。6月21日キュチュク・カイナルジ条約が締結され、ロシアはオスマン帝国から多数の利益を引き出した。


プガチョフの乱

この頃、ヴォルガではコサックの首長エメリヤン・プガチョフによる反乱(プガチョフの乱)が勃発していた。露土戦争終結後まもなく、スヴォーロフは鎮圧に派遣された。1774年8月30日、現地軍の指揮を引き継いだスヴォーロフは、9月14日までに反乱軍を撃破し、首謀者のプガチョフを捕縛してモスクワへ送った。スヴォーロフは引き続き軍の指揮を任され、反乱軍残党の掃討にあたった。1775年8月11日、留守中にサンクトペテルブルクで娘ナターリヤが生まれた。

1777年、スヴォーロフはクリミア軍司令官に任じられ、軍の再編にあたった。1779年カフカス軍司令官に異動。1780年中将に昇進した。1782年カザン軍司令官に異動。1783年大将に昇進した。1784年、息子アルカディーが生まれた。


第二次露土戦争フォクシャニ近郊に建つスヴォーロフの彫像

1787年、ロシアのオスマン帝国への領土割譲要求をきっかけに再び露土戦争が勃発した(第二次露土戦争)。スヴォーロフは30,000名の軍を率いてドニエプル河口にあった。10月17日、オスマン軍がキンブルン要塞へ攻撃を仕掛けてきたが、これを撃退した。この攻防戦の最中にスヴォーロフは尻と腕を負傷している。傷が癒えたスヴォーロフは、1788年8月7日からオチャコフ要塞を包囲し、1789年2月、6ヵ月間にわたる攻防戦の末に陥落させた。また、この最中にもスヴォーロフは首を負傷している。

1789年8月12日、スヴォーロフはフォクシャニでオスマン軍を撃破し、エカチェリーナ2世から聖アンドレイ勲章を授与された。1789年9月22日、ロシア軍は神聖ローマ帝国軍と連合し、ルムニク・サラトでオスマン軍を撃破した。この際、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世も戦場にいたが、指揮はスヴォーロフが執っている。エカチェリーナ2世は勝利を祝福して、スヴォーロフにルムニク伯の爵位を授け、さらに自身の名を爵位に添えることを許した。また、ヨーゼフ2世も神聖ローマ帝国における伯爵位を授けた。

1790年、スヴォーロフはオスマン帝国の重要拠点であるイスマイル要塞を攻撃した。この攻防戦において、ミハイル・クトゥーゾフは、要塞の稜堡へ5度にわたる果敢な攻撃を仕掛けた。12月21日、イスマイル要塞は陥落。スヴォーロフはエカチェリーナ2世への報告の中で、陥落はクトゥーゾフの功績であると述べた。このため、クトゥーゾフは脚光を浴びるようになった。

事実上、この時点でロシアの勝利は確定しており、スヴォーロフの力が必要とされる場面はなくなっていた。このため、戦争中は抑えられていた、総司令官ポチョムキンとの反目が表面化してきた。ポチョムキンはエカチェリーナの寵臣で、その縁を利用して総司令官に収まっていたが、軍事的には凡庸な人物であった。そのため、スヴォーロフとは戦略をめぐって幾度も対立した。また、ポチョムキンは、イズマイル要塞陥落の功を自分のもののように宣伝しており、スヴォーロフは公然とこれを非難していた。

このような軋轢があったため、1791年4月、スヴォーロフは突然スウェーデンとの国境地帯を守備する軍の司令官に左遷された。さらに7月にはカレリア要塞司令官に異動となった。一方、露土戦争は、1792年1月9日にヤシ条約が締結されて終結した。ロシアはオスマン帝国から黒海周辺の領土を獲得し、一挙に版図を拡大した。1792年12月、スヴォーロフはウクライナ軍司令官に任じられ、再び最前線で軍の指揮を取ることとなった。これは前年にポチョムキンが死亡したためであった。


コシチュシュコの蜂起

1794年3月24日ポーランドの軍人タデウシュ・コシチュシュコが、ロシアの支配に対して蜂起した。ロシアはこれを鎮圧しようと軍を送ったが、ポーランド軍に敗れて後退していた。9月、急遽派遣されたスヴォーロフは、軍を建て直して攻勢に転じた。ロシア軍は勝利を続け、10月10日、マチェヨヴィツェの戦いでポーランド軍に大打撃を与え、さらに蜂起の首謀者コシチュシュコを捕縛した。

11月3日、ロシア軍はワルシャワへの攻撃を開始、翌4日に陥落させた。ポーランド軍はプラガ地区で最後の抵抗を行った。プラガ地区で4時間に渡って市街戦が行われ、ポーランド軍は全滅した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki