アルベルト・アインシュタイン
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平和活動アインシュタインが提出したアメリカ合衆国帰化申請書

科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインは様々な政治的発言を行っている。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ。」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言[3]し、同時代人の文学者ロマン・ロランから後に痛烈に批判されている。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命している。

一部には「アインシュタインが原子爆弾開発者」という思いこみも存在するが[4]、これは誤解であり、アインシュタインは原子爆弾製造に関しては一切関与していない。

しかしながら、レオ・シラードの勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙 ⇒(写真)に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。

近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。

フランスのジョリオ=キュリーならびにアメリカのフェルミとシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。

その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。


この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。

その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。


ウランのもっとも重要な産地であるベルギー領コンゴなど含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。

政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。

政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。

寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。


ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究がカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ。

この手紙はシラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックスを介して、1939年10月にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られた。

しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュはその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があるとしている。アインシュタインとオッペンハイマー

日本の一部には、戦後アインシュタインがこの署名を悔やんだとする説があるが、これは誤解であり、アインシュタイン自身がこれを悔やんだとする直接の証拠は存在しない。

アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルラッセル・アインシュタイン宣言を発表しパグウォッシュ会議を創設。また世界連邦の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。


人物像

非常に臆病で、生真面目でありながらも気さくな性格であった。

彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思っていなかったという。それは彼の「私は天才ではない。ただ人よりも長く一つのことと付き合っていただけだ」との言葉にも表れている。

ヴァイオリン演奏を好み、公の場でもしばしば演奏した。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。また「ヴァイオリンの名手であった」という風評が一般的であるが、当時の高名なヴァイオリニストからは「相対的に良い(relatively good)」と評価されている。作曲家ではモーツァルトに対する思い入れが強かったらしく、雑誌のインタビューで「あなたにとって死とは」と尋ねられた時、「それはモーツァルトが聴けなくなることだ」と答えている。

靴下を履かない。当時の靴下は脆く、すぐに破れてしまうため嫌いだった。そのため、常に靴を素足のまま履いていたという。

睡眠時間は1日10時間と言われている。

非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食事を盛り付けると云う行動もあったといわれている。なお、服装に気をつかってはどうかと言われた際、「肉を買った時に包み紙の方が立派だったらわびしくはないか」とやりかえした事があるという。

最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学バークレー校流体力学関係の教授を勤めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki