アルベルト・アインシュタイン
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アインシュタインと日本都市、大学名や肩書きなどの名称は当時のもの。現在の名称はリンク先参照

1912年明治45年)、東北帝国大学初代総長・澤柳政太郎が、ドイツミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5000マルク(約7500円)、3年の任期で、アインシュタイン博士(チューリッヒ工科大学教授)を新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、実現しなかった[7]

1922年大正11年)、改造社の社長山本実彦は、東北帝国大学の教授となっていた石原純、および、京都帝国大学哲学教授・西田幾多郎のすすめによって、同出版社によるバートランド・ラッセルマーガレット・サンガー夫人に次ぐ「革命的人士」として、アインシュタインを妻エルザとともに日本に招待した。これは、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増を見込んだものでもあったが、当時のドイツユダヤ人迫害、日本は大正デモクラシーの時期であり、社会的にも大きな意味を持った。ただし、アインシュタイン博士は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが来日の目的であると語っている。

10月8日日本郵船「北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユを出港。11月10日香港上海の途上)、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタイン博士に1921年度ノーベル物理学賞光電効果の法則等について。相対性理論についてではない)を授与することを発表し、博士も船上でこの電報を受けた(1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。受賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った)。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。13日午前11時、上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。

11月17日16:00過ぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学長岡半太郎教授、東北帝国大学の石原純元教授(女性問題で既に辞職)と愛知敬一教授、九州帝国大学の桑木或雄教授(石原氏と桑木氏は博士とスイスにて面識あり)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌日、9:15発の特急東京に向い、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに相当の時間が必要だったと記録されている。

一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市名古屋市京都市大阪市神戸市福岡市で各1回の計8回行われ、14000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。※当時の六大都市人口順):東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜※当時存在していた帝国大学設立順):東京・京都・東北・九州・北海道

11月19日、慶應義塾大学・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演。「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」

11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。参加者は穂積陳重長井長義、通訳を勤めた長井夫人のテレーゼら。夜は明治座で日本の芝居を見物。

11月24日、神田青年会館で一般講演。「物理学における空間および時間」

11月25日〜12月1日、東京帝国大学理学部物理学教室中央講堂で、専門家向け学術講演(日曜は休んで毎日14:00から一時間半、計6回)。「光速度不変の原理」「自然法則とローレンツ変換の共変性」「テンソル解析法」「テンソル微分法」「万有引力」についてなど

12月2日、仙台駅着。東北帝国大学を訪問し、本多光太郎教授と会う。

12月3日、仙台市公会堂で一般講演(9:30〜14:30。通訳:東北帝大・愛知敬一教授)。15:00発の列車で松島へ。土井晩翠と会う。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki