その後連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した、連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル三州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったものの、アルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入る。1832年に州知事を辞すると、ロサスは「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのインディヘナを、今日のブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出して部下に分け与え、大土地所有制を強化するなどの出来事もあった。
1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れ、妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われて1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。 以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策でブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする、上流階級以外の各層から支持を得て独裁制は成り立っていたのである。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチンを守り抜いた。
しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いで敗れ、失脚した。
国家統一と西欧化最も代表的な自由主義(欧化主義)者ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント1868年から1874年まで大統領を務めた
カセーロス以後のアルゼンチンは当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは消し去らねばならない存在として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合は極めて自由主義的な憲法を持っており、リトラル諸州の要請で貿易を自由化したところで、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業は殆ど壊滅してしまった。 1861年にはブエノスアイレス州がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が成ると、勝利した元ブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレらが主導権を握ってヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉を進め、亜伯二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。こうした勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどがいる。
その後1868年に就任した自由主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント大統領らによる土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍の指揮した砂漠の開拓作戦によってパンパからインディヘナが消えると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制が進んだ。
繁栄と民主主義の時代民主化に努めた急進党のイポリト・イリゴージェン(1916年 - 1922年と1928年 - 1930年には大統領になった)
その後1880年に正式にブエノスアイレスが首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの非公式植民地として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。 こうしてヨーロッパからの大量の移民がブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」になっていった。1914年には国民の約30%が移民であった。 同時にこの頃から、移民の流入や、都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治から民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに、1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進党へと発展して行った。 急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、保守派のロケ・サエンス・ペーニャ大統領は行政による選挙干渉をやめることを提案し、こうして1916年の選挙には急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出された。 民族主義的な政策を以て政治に望んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごし、1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界で第五位の富裕国として名を連ねるようになった[1]。
混乱と暴力の時代アルゼンチン現代史最大の問題人物フアン・ペロン。彼は生涯に三回大統領になった(1946年-1952年, 1952年-1955年 と 1973年-1974年)
しかし、1929年の大恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は不安定になった。翌1930年にイリゴージェンは軍事クーデターで追放された。
1930年に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたがこれは失敗した。1932年にアグスティン・ペドロ・フストが大統領となると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ・ランシマン協定で、どうにかイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のようになってしまった。