近代に入ると、北部ユーラシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到達した。1648年、ロシアの探検家セミョン・デジニョフ(Semyon Dezhnev)が島に到着した最初のヨーロッパ人である。しかしデジニョフの航海は19世紀後半まで忘れられており、1728年8月16日にヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名したとされる。再発見した8月16日はロシア正教会がタルソスの聖ディオメデスを祝う日であり、これにちなみ現在の名となった。またロシアの測地学者ミハイル・グヴォーズデフ(Mikhail Gvozdev)が島の位置を地図に記した(別名のグヴォーズデフ諸島の名はこれにちなむ)。 19世紀後半ロシアは植民を行い、露米会社がアザラシなど海洋動物の毛皮を採集していたが、運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなってきたこと、クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に720万ドル(1km?あたり5ドル・計約100億円)で売却された(アラスカ購入)。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・H・スワードである。このことは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが(主に旧ソ連に対する)国防上重要な役割を果たすことが分かり、現在では高く評価されている。
なお、アラスカはかつてロシア領だったために正教会の信者の割合が他州に比べて高く、現地語のうちの幾つかがロシア人宣教師によってはじめて文字化された。
1896年カナダのユーコン準州で金が発見される。 その後、アラスカのノームやジュノーやフェアバンクスでも金鉱が発見され、アラスカのゴールドラッシュが始まり、何万人もの砂金探しがアラスカとカナダのユーコン準州に集まった。フェアバンクス等はこの時代に町としての形をなした。
1959年米国49番目の州に昇格。
1950年代の米ソ核軍拡競争の時代には、アラスカを水爆実験場にしようという計画が持ち上がったが、自然保護運動の高まりの中、中止に至る。
1968年アラスカの北部のプルドー湾で、ARCOが油田を発見した。推定埋蔵量は96億バレルだった。1974年-1977年に、プルドー湾からヴァルディーズ市(1,280km)までのトランス・アラスカ・パイプラインが建設された。
北アメリカ大陸最高峰のデナリ(別名マッキンリー山)がある。周囲は広大なデナリ国立公園が広がっている。また、自然保護区としてラッセルフィヨルドがある。
人口動勢主要記事:アラスカ州の郡一覧
人口推移
国勢調査人口 %±
⇒1950年128,643人
⇒1960年226,167人75.8%
⇒1970年300,382人32.8%
⇒1980年401,851人33.8%
⇒1990年550,043人36.9%
⇒2000年626,932人14.0%
2005年概算663,661人5.9%
2005年現在、アラスカ州は前年より5,906人、または0.9%増加し、2000年より36,730人、または5.9%増加した、人口663,661人と概算された。これは36,590人(出生53,132、死亡16,542)と前回の国勢調査からの自然増並びに州内への移住者1,181人の増加が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住は5,800人増加する事となり、合衆国内部の移住者は4,619人減少する事になる。
アラスカ州の人口重心( ⇒Center of population)はアンカレッジの東おおよそ64.37km(39.96マイル)となっている ⇒[1]。
アラスカで最も人口の多い都市は州都アンカレッジで、2000年現在260,283人、市街地域には225,744人が暮らしている。アンカレッジは他にも同州の2都市に続いて、 ⇒アメリカ合衆国の都市の面積順リストで3番目に位置している。(1位は南東部に位置するシトカで、2位はジュノーがつけている。)人口100,000人以上の都市
アンカレッジ
人口10,000人 - 100,000人の都市
フェアバンクス
ジュノー
人口10,000以下の都市
ケチカン
シトカ
ワシラ
キナイ
コディアック
パーマー
ベセル
⇒w:Gustavus
バロー
ウナラスカ
バルディーズ
ソルドトナ
ホーマー
ノーム
ピータースバーグ
⇒Kotzebue