アメリカ海兵隊は、アメリカ独立戦争中の1775年11月10日に設立された大陸海兵隊(Continental Marines)を起源としており、総司令官にはサミュエル・ニコラスが任命され、当時の構成は、将校10名、兵卒約200名であった。
大陸海兵隊は、当時の艦船乗り組みの海兵隊員の一般的な任務である、通常は艦内秩序の維持を目的とする警備任務等を行い、戦闘時には強行接舷した敵艦に斬り込み隊として白兵戦を行ったり、接近した敵艦の乗組員を小銃で狙撃したりする任務をこなした他、コマンド部隊としてイギリス軍の物資集積所を海から上陸して襲ったりしていたが、アメリカ独立戦争が大陸側勝利で目処がついた1783年に解散した。
その後、フランス革命の影響による「擬似戦争」と呼ばれる緊張状態の発生により、1798年7月11日にアメリカ海兵隊(United States Marine Corps)として再建された。
総司令官にはウィリアム・W・バローズ少佐が任命され、その当時の構成は次のとおりであった。
大尉:4名
中・少尉:28名
軍曹:48名
伍長:48名
鼓手:32名(当時必須の兵士)
兵卒:720名
※将校は上院による任命制で、兵の任期は3年であった。
また、再建時に海兵隊軍楽隊が組織され、1801年1月1日に第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの求めに応じて大統領府における演奏会を行って以来、大統領の面前で演奏できる唯一の軍楽隊としての栄誉を与えられた。
ちなみにアメリカ海兵隊員のことを別名“Leather Necks”(レザーネックス)と呼ぶのは、この再建時に士官、兵士を問わず唯一支給され、共通して首につけていた白兵戦に備えて刃から首を守る黒皮製のカラー(襟)に由来するものであり、アメリカ海兵隊の礼装(ブルードレス)が詰め襟であるのもこの伝統が引き継がれていることによるものである。
アメリカ海兵隊の海外派遣は、地中海の自由航行権をめぐるトラブルからオスマン帝国の独立採算州であるバーバリ諸国との間で発生した第一次バーバリ戦争(1801年?05年)が初めてで、この時は、1804年にアレクサンドリアに上陸したプレスリー・N・オバノン中尉の率いる部隊が、1805年4月27日、トリポリの要塞を占領[1]したことにより、勝利を確定的なものにし、拿捕された自国艦の乗組員の身代金6万ドルを支払ったものの今後はアメリカ籍の船の航行を妨害しないことを約束させることに成功した。
このとき、与えられたマムルーク剣の改良型は、アメリカ海兵隊将校の儀礼用のみならず、戦闘用の使途も含めて一時期を除いた現在に至るまで制式装備となっている。
また、米墨戦争では陸軍に先んじて宮殿を占領[2]する等の活躍を見せた他、第一次世界大戦では、アメリカ合衆国欧州派遣軍の一部としてフランスのベロー・ウッドで逃げ腰のフランス軍に代わってドイツ軍と激戦を繰り広げ、崩れかけた体勢を立て直してドイツ軍を撃退するなど、いつの時代にあってもアメリカ海兵隊は戦場において、その強さを見せつけてきた。
1910年代から1930年代には、中米・カリブ海諸国のハイチ、ドミニカ共和国、パナマ、メキシコ、ニカラグアなどに派遣されているが、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦すると1933年に撤退した。ニカラグアから撤退すると、フランクリン・ルーズベルト大統領は善隣政策を導入し他の中米諸国からも撤退している。
なお、平時は常に縮小され、議会などでは、アメリカ海兵隊の維持経費は「無駄な経費」と罵倒され、議会の決議次第では、解体される危機にさらされていた。
これまで上記のような厳しい扱いを受けていたアメリカ海兵隊であったが、その存在価値が見直されるのは、第二次世界大戦時のことである。
このときアメリカ海兵隊は、戦前の1930年代から島嶼における敵前強行上陸を主体とする作戦展開を研究した他、海兵隊航空団を拡充し、海兵隊装備委員会では敵前強行上陸において効率的に作戦が進むよう、LVTなど海兵隊独自の戦闘車両を始めとする装備の研究を行い、太平洋戦争開戦後は、海軍と連携しての三次元作戦が行える段階にまで調整されていた。