アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するタイム家の出身。ムハンマドの親戚でもある。アブー=バクルというクンヤで専ら呼ばれるが、もともとの彼の名前(イスム)はアブドゥルカアバ ??? ?????? ‘Abd al-Ka‘ba (カアバの下僕)であったが、イスラームに改宗したときに預言者ムハンマドによってムハンマドの父の名前と同じアブドゥッラーフ ??? ???? ‘Abd All?h (アッラーフの下僕)に改めたと伝えられている。「美顔の持ち主」ゆえに「アティーク」 ??????al-‘At?q とあだ名され(後世には同じ単語の別の意味から「(地獄の業火から)解放された者」と解釈された)、また、最初期からのムスリムで信仰心篤く、いかなる機会や事態に陥っても信仰を疑わずムハンマドがミウラージュの奇跡を語った時も真実としてこれを信じたため、「(正しさを疑わぬ)真実を語る人」すなわちスィッディーク ??????? al-?idd?q という尊称(ラカブ)で呼ばれる。
預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの近親を除く最初の入信者であったとされる。ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャが9歳の時に、当時56歳だったムハンマドに嫁いだ[1]ため、ムハンマドの義父にもあたる。(ただし、年齢はムハンマドより3歳程度若い。)632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。
しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー=バクルに忠誠をみせない勢力もあった。アブー=バクルはハーリド・イブン=アル=ワリードらの活躍によってこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した(リッダ戦争)。また、イスラーム勢力拡大のためにサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。
アブー=バクルは、カリフ在位わずか二年にして病のため亡くなった。そのため、一連の征服活動は2代カリフのウマル・イブン=ハッターブに受け継がれることになった。
アブー=バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では本来預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある[2]。
脚注^ ブハーリーのハディース集成書『真正集』「婚姻の書」第39節第1項(アーイシャ自身からの伝)、同第40節(アーイシャおよび伝承者ヒシャームからの伝)、同第59節(伝承者ウルワからの伝)その他。猶ハディース中には「9歳で婚姻を完成させた」と記されているが、注記によれば「性行為を行った」という意味とされる。
^ これについて、スンナ派のハディース集である「真正集」(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の7章4節において、イブン=ウマルからの伝として「預言者の時代に最も優れた教友はアブー=バクル、次はウマル、次はウスマーンであり、その他については区別立てしない。」というものがあり、スンナ派のカリフ継承順は正当なものであったと主張している。同第4章1節、第5章の2の10節にも同様の記述がある
関連項目
カリフ
アラブ帝国
先代:
----正統カリフ
632年 - 634年次代:
ウマル・イブン=ハッターブ
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カテゴリ: イスラム教 | 573年生 | 634年没 | イスラム・スタブ
更新日時:2008年9月27日(土)16:01
取得日時:2008/10/03 23:16