1944年12月からのアルデンヌ攻勢では、連合国軍を一時的に大きく押し戻し、ヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局は物量に勝る連合国軍に圧倒され、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量の前に失敗する。
この主要戦線から離れた所で行われた、軍事的に無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、軍需大臣のシュペーアは聞き入れず、ほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。
ベルリンの戦いで敗北が迫ると、ヒトラーは七年戦争におけるフリードリヒ大王のブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。
大戦中を通じてヒトラーは、しばしば政治上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、自殺前に行われた最後の声明に到っても、戦争に負けた原因を国防軍にあるとして非難した。
自殺ヒトラーの死を伝えるアメリカ軍の新聞
1945年4月29日に、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。ヒトラーの地位の後継は遺言によって、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党首にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。
自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが(毒を仰いだという説もあり、真相は不明)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため、西側諸国にはヒトラーの死亡に関し疑わしい部分が残り、後に「同盟国である日本の潜水艦で逃亡した」、「戦前から友好関係を保っていたアルゼンチンやチリなどの南米諸国に潜水艦で逃亡した」といったヒトラー生存説が唱えられる原因となった。
また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、米英ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。
なお、自殺に使われた銃は、ヒトラー専用のワルサーPPKと言われているが、遺体に残っていた傷跡は一回り大きい9ミリ弾のものであったため、暗殺説もささやかれている。
ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの友好国の協力を受け、イタリアやスペイン、北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちがそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977」のハインツ・シェッファー艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。
それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国大日本帝国にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年。フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。その他、TO諜報機関のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもあるが、信憑性はきわめて低い。
俗説と言われているが、晩年のスターリンが「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻したとされている。
ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『我が闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。
その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いており、後に同盟をくむ日本もまた二流民族として扱われていた(詳細は下記参照)。
独の哲学者、ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの超人的思想に見る完全支配のような考えを、「力こそがすべて」という本書から誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘される。また日本でも翻訳版が出版された。但し、ヒトラー自身は、後に「既に過去の著作物であり、必ずしも現状とは一致しない」旨のメモ類を残しているらしいが、ナチス政権時のサーキュレーション数字からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが終始確認されている。