1913年、オーストリア・ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する。1914年に当局に逮捕されたが検査で不適格と判定され兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦で、(大ドイツ主義的)愛国心から熱狂した彼は、また停滞した人生や貧困を打破するためもあって、オーストリア国籍のまま(ドイツ国籍取得は1932年)バイエルン領(1918年まで、バイエルン王国の主権を保持したまま、ドイツ帝国の一領邦として存在した)の志願兵として入隊し、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊に配属された。
緒戦の8割前後の死傷率の中を生き抜き、後に伝令としての技能を発揮、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された。[1]ヒトラーは司令部付きの伝令兵であったため、優秀な働きぶりにもかかわらず叙勲が遅れたのである。しかし結局、階級は伍長勤務上等兵[2]止まりであった。当時のドイツでは優秀な下士官やベテラン兵卒が戦死して不足しており、伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋ったことと、勇敢ではあるが、直属の上官に対し戦功を「自画自賛」する態度と「指導力」の欠如が昇進につながらなかった理由として挙げられている。
ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、ヒトラーは塹壕戦での毒ガスで神経を犯され、一時的に視力を失って入院していた。毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負い、また精神的にも傷ついたヒトラーはヒステリーと診断され、軍医により催眠術による治療を受けた(このためか、第二次大戦では自軍による前線におけるガスなどの化学兵器の使用を、敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮して厳禁している)。『我が闘争』によれば、このときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために、建築家を目指すことを放棄し、政治家を目指すようになったという。喉の負傷による声の変化は戻らなかったため、後の演説にみられるような独特の野太い声になった。
また、この時期にヒトラーはミュンヘン革命に参加している[3]。革命の間、ヒトラーはレーテ活動家になり、代表代理にまで昇進した。この経験が、後の社会主義への確信や革命家としての自負に繋がったと言える。
ヒトラーは敗戦後も軍の情報関係の仕事を続け、激増した新党の調査を担当していた。その一環として参加した「ドイツ労働者党」の集会で演説者をやり込めたのが党議長の目に留まり入党する。50人程度の小党(というより現在の感覚ではほとんどサークルのようなもの)であったがその理念に共感し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになる。この頃、すでにヒトラーは演説者としての能力を認められており、軍からプロパガンダの講習を受けている(この講習会はドイツ国防軍第4集団、即ちバイエルン国防軍の情報課が企画したもので、反共主義、民族主義の宣伝活動家の養成を目的としたものであった。ここでヒトラーは生まれて初めて大学の教室で右翼の大学教授や知識人の講義を聴くこととなった)。
このなかでもヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聴衆を引き込むヒトラーは、優れたプロパガンダの才能の持ち主であった。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をほのめかすなどして上層部に圧力をかけ、独裁を認めさせる。党名を国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、対抗勢力による通称ナチ)と改め1921年7月29日その党首となる。この頃の大日本帝国では、ヒトラーは「ヒットレル氏」として新聞報道で紹介されていた。
詳細はミュンヘン一揆を参照
1923年11月9日、党勢を拡大したナチ党はミュンヘンで政権の奪取を目論みクーデターを起こす。これは前年にイタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似て行われたものだったが、警察・軍隊いずれの協力も得られず、やむなく前大戦の英雄ルーデンドルフを担ぎ出すが失敗し、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヘン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、党も非合法化される。逮捕の後、禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受け、この期間にルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。
禁錮5年を宣告されたが判決から9ヵ月後の1924年12月20日に釈放された。
1925年2月27日、党を合法政党として再出発させ、またオーストリア国籍を捨てた。この頃、党内左派で後に宣伝大臣となるヨーゼフ・ゲッベルスが頭角を現した。ゲッベルスは「日和見主義者」としてヒトラーの除名を目論んでいたが、ヒトラーは巧みな弁舌と説得でゲッベルスを味方に引き入れることに成功し、除名を免れている。
その後ヒトラーは合法路線で徐々に党勢を成長させる。当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。その中でヴェルサイユ体制の打破を訴えアジテーターとしての才能を発揮したヒトラーは圧倒的多数の支持を得て、党内左派(ナチス左派)最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利(粛清)した。
共産党の排撃を訴え、ソ連のような事態を恐れる資本家からも援助を受けて力をつけたヒトラーは、1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党テールマン、国家人民党ディスターベルクが立候補。