初期のアテナイはギリシアでも後進地域であり、土地は痩せて産業もない都市国家であった。暗黒時代に破壊を免れたのは都市のあまりの貧弱さに侵略者であるドーリア人が攻撃の価値を見出せなかったからだという説さえある。また、それゆえに独自の通貨を持つだけの国力も無くアイギナの貨幣・経済圏の支配下に置かれていた。
アテナイが経済的に注目されることになったのは、ソロンの改革以後の事である。ソロンはアテナイの産業不振の原因をアテナイ市民が商業や工芸の仕事を奴隷の仕事として卑しんでいるからだと考えて、故国を追われて亡命先を求める職人や貿易商人をアテナイに招聘できるように市民権獲得条件を緩和した。また、当時ギリシア最大の商業都市であったアイギナと商圏が重なる事から、アイギナの貨幣圏から離脱してコリントス通貨圏に移った。これによって、外国から招き入れた職人達によって高度な陶芸技術がアテナイに持ち込まれて、アテナイが陶器の産地として知られる事となるとともに、アイギナ商人が及ばないコリントス経済圏に市場を広げる結果となった。
また、続くペイシストラトス時代にはマケドニアから来た鉱夫によってラウリウム銀山の本格採掘が始まった。銀が採れないとされてきたギリシア世界で唯一本格的銀山を保有するアテナイはこれによって独自の貨幣(銀貨)の生産を可能にしてギリシア世界の経済を支配する立場に立ち、食料自給率の低い(推定で約3割から5割)アテナイにとっては貴重な食料や船舶の材料である木材の輸入を可能にした。勿論、銀山で働いていたのは奴隷達であったが、彼らの監督者はアテナイの財政を左右する要職として一流の市民が選ばれたと言う。更にペルシア戦争最中の紀元前483年にラウリウム近くのマロネイアからも大規模な銀山が発見されると、当初は全市民に毎月産銀を分配する計画であったが、間もなく当時の指導者・テミストクレスの提案によって、その産銀を海軍予算にあてる事が了承された。アテナイがペルシアに勝利するだけの海軍力を得たのも銀の成果であり、それは食料や木材の輸入ルート確保にも重要であった。
ペルシア戦争勝利後のアテナイはデロス同盟の盟主としてその勢力の拡大に力を尽くした。紀元前433年にケルキュア(コルキュア)を巡って対立したかつての経済的盟友・コリントスを破り、2年後にはかつてのライバルであったアイギナをデロス同盟の傘下に収めた。これによって、アテナイはギリシア最大の都市国家に上り詰めた。その一方で、アテナイはデロス同盟参加国が収める年賦金を自国財政に公然と流用するようになり、アイギアはじめとする各国の貨幣鋳造権を取り上げてアテナイ貨幣使用を強制していた。
一方で、アテナイにも経済的弱点があった。経済的な台頭が遅かった事もあって、植民地拡大競争では他の都市に乗り遅れてしまったことである。遅ればせながら植民地を創設して「クレールーキア(klerouchia)」と呼ばれるアテナイ市民権の保証と引き換えに従属義務を負う契約を結んだ都市の建設に乗り出した。しかし、それが十分進まないままにペロポネソス戦争が始まってしまったために、信用が十分置ける都市国家の不足とアテナイ籠城策による人口の過密化とそれに由来する都市問題・食料問題の深刻化、更には指導者・ペリクレスの命すら奪った大疫病の発生など、全てがアテナイ側への不利に働く結果となった。
ペロソポネス戦争によって、軍事大国スパルタと同国の経済的劣勢を支えたコリントスを敵に回したアテナイの指導者・ペリクレスは籠城による長期戦を計画する。だが、籠城によって余りにも人口が多くなったアテナイを人口過密からくる諸問題が襲い、自らの首を絞め始めた。更にペリクレスはアテナイの支配地域の農地は肥沃ではなく食料自給率も低いので敵に農地を荒らされても食料は輸入で補えばいいという考えであったが、商工業を卑しむ傾向があったアテナイ市民の中には農園経営者が多く、ペリクレスの死後に籠城の長期化による農地の荒廃に不満を抱くものが続出して、強引な出撃策に出てはスパルタ軍に撃破されると言う戦術的な誤りを犯す事になる。やがて、敵であるペロポネソス同盟に匹敵する面積・人口を誇ることを十分に理解しないままに乗り出したシチリア遠征に国力を注ぎ込んで壊滅し、その隙を突いたスパルタ軍のアッティカ進出、更には同軍の煽動によるラウリウム・マロネイア両銀山における奴隷鉱夫の反乱とその逃亡、さらにデロス同盟加盟国の離反によって、アテナイはその経済を支えてきた銀の生産・船舶・同盟年賦金の全てを失った。そして、制海権を奪ったスパルタ・コリントスなどのペロソポネス同盟海軍はアテナイの海上封鎖に成功して、アテナイは飢餓状態に陥った。これによって、アテナイは降伏へと追い込まれることになった。
最盛期のアテナイは、3万?4万人の市民(成年男子で構成・家族を含めると15万人)、奴隷8?10万人、商業や学芸などに従事する在留外国人(メトイコイ)1万?15,000が居住した。男子は7歳になると、私学に通って読み書き、計算、体育、音楽を修得した。成人男子は、戦争や民会への参加、平時にはアゴラ (αγορ?)に集って哲学論議に花を咲かせ、体育に汗を流した。女性の地位は低く家庭内に籠もって15歳位で親が決めた30歳位の男性と結婚した。
奴隷は解放されることもあったが、農業、商業、手工業、鉱山業、家内の雑用、公文書の記録・保管、市中警備などあらゆる部門に酷使された。4?5人家族であれば、男子奴隷1名を公共工事に従事させて得る報酬で生活することもできた。
ギリシア各地から学者、芸術家が集まり文化の花が開き、哲学のソクラテス、プラトン、アリストテレス、劇作家のアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス(→ギリシャ悲劇)、アリストパネス(→ギリシャ喜劇)、彫刻家のペイディアス、歴史家のトゥキディデス、著述家のクセノポンらが輩出し、その後のヨーロッパ世界に強い影響を与えた(皮肉な事に彼らの多くがその後のアテナイの没落を目にして民主制に否定的な思想を唱えていく事になる)。
ギリシア神話中では、アテナイはオリュンポス十二神の水神ポセイドンと女神アテナが、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテナが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイとされたとされている。 その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とする者であり、ポセイドンは泉の中から馬を出し、アテナはオリーブの木を生み出し、オリーブの油の方がより有益であると市民に判定されたとされる。
関連項目
カリストラトス
イフィクラテース
カテゴリ: 古代ギリシア都市 | 民主主義 | アテネ
更新日時:2008年9月26日(金)03:05
取得日時:2008/10/05 00:24