ペルシア戦争に勝利し海上交易における覇権的地位を確立したアテナイは、ギリシア第一のポリスとなり、政治のみならず経済や文化の中心都市としても発展し、多くの人々がアテネに移り住んだ。また、前の戦争において市民による重装歩兵が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させており、直接民主制による民主政治が確立されていった。こうした状況下で、優れた政治的指導者であるペリクレス将軍のもと、アテネは繁栄を謳歌していた。
外交面では、アテナイを盟主としてイオニア地方やエーゲ海のポリスまで含んだデロス同盟と称される軍事同盟が結成された。当初はアケメネス朝の再襲に備えたものであったが、アケメネス朝の脅威が減少するにつれ、徐々にアテネが他のポリスを支配する道具になっていった。こうして出来上がった体制を「アテナイ海上帝国」と呼ぶ事もある。当初はデロス島に設置されていた金庫はアテナイに移転され、同盟の潤沢な資金をアテナイが流用して、公共事業であるパルテノン神殿建設や海軍増強などにつぎ込まれた。
ペルシア戦争によってアテナイが急激な経済発展でギリシア第一の都市国家に発展していく一方で、他のポリスは際立った戦果もなく、アテナイの一人勝ちとも思える振る舞いを苦々しく感じていた。アテナイが帝国主義的な振る舞いをするようになるとデロス同盟内のポリスから反発が起こるようになった。そして元々農業国家でペルシア戦争のもう一つの戦勝功績国スパルタは、こうしたアテナイに反対するポリスを支援して両者は激しく対立するようになった。
紀元前431年、アテナイとスパルタの間にペロポネソス戦争が開始された。陸戦に強いスパルタであったが、国内に多くの被抑圧民を抱えるスパルタには長期間の遠征が無理であったことから、指導者ペリクレスは籠城戦を選択する。陸戦を耐え抜いて得意の海戦でスパルタを圧倒する作戦であった。
紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した疫病(19世紀にはペスト説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスが死亡した後、漸次アテナイは劣勢に立たされた。大国ペルシアはアテナイのエーゲ海支配を嫌ってスパルタに海軍および軍資金を提供した。戦争は、紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。
スパルタに敗れた後のアテナイには三十人政権と呼ばれる寡頭制政権が成立し、恐怖政治を敷いた。海外領土および従属国を失ったアテナイの経済力は衰退し、またアテナイの政治は大きく乱れた。 紀元前377年、アテナイは国力を回復し再度海上同盟を結成したが、紀元前338年、カイロネイアの戦いでマケドニアのフィリッポス2世に屈服してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失って、アレクサンドロス大王とそれに続くディアドコイの帝国に編入された。ローマに支配されるようになった後は文化都市としてローマ人の尊敬を受けて栄え続けたが、6世紀のスラブ人の侵入以後は衰退し、東ローマ帝国の一地方都市となった。
アテナイ成立の当初は王政だったとされるが、その実態は明らかではない。その後、王政から貴族政(寡頭政)へと移行していった。しかし、商工業の発展にともなって貧富の差の拡大が進むと、一部の富裕化した平民層は、自ら武装して重装歩兵部隊を編成することが可能になった。こうして、ポリスの防衛などに平民も活躍するようになると、彼らは徐々に政治的権利を拡大していき、あいつぐ戦争を通じて身分の区別を超えた市民共同体としてのアテナイが形成されていった。
紀元前8世紀頃、アテナイ中心部へ集住(シュノイキスモス)が行われ、これがアテナイの出発点となったと考えるのが一般的である。伝承によれば王政が打倒され、まもなく貴族政(寡頭政)へと移行したとされる。当時、古代ギリシア人は各地に植民活動を行っており、植民市との間で交易が盛んになっていた。こうした中で商工業の発展が促され、一部の平民の富裕化を招く一方で、貧困層の困窮化も深刻化していた。史料上最初の政治的事件は、前630年頃にキュロンが非合法的に権力掌握を図ったというものである。しかし失敗して殺害され、僭主の地位を手にすることはなかった。紀元前624年頃にドラコンによって慣習法が成文化されたとされる。これによって、貴族による法知識の独占が崩されたことは、平民が政治に参加していく前提条件が生み出されたとも考えらている。
貧富の差の拡大は、アテナイ社会の深刻な問題となっていた。「六分の一(ヘクテモロイ)」と称される貧困層は債務奴隷となり他ポリスに売却されることもあったため、こうした事態がアテナイの弱体化につながる懸念もあった。一方、アテナイのかなり早期より、富裕な平民は自弁して重装歩兵となりポリス防衛などに活躍して発言力を強めており、身分によって政治参加の区別があることは、当時の社会にそぐわなくなっていた。こうした状況を受けて、紀元前594年にアルコンに就任したソロンは、市民の債務を帳消しにするとともに債務奴隷を禁止させ、アテナイ市民の地位を守るとともに、財産額によって市民の4等級に分け、その等級に応じた政治参加を認めた。これにより家柄でなく財産の多寡が政治参加の度合いを決めることになった。
ところが、ソロンの改革を巡っては、古くからの特権を保持する貴族と改革支持派が対立しそれぞれの居住区から前者は平野党(Pediaei)、後者は海岸党(Paraloi)と呼ばれた。更に後者からは急進改革派である高地党(Hyperakrioi、後に山地党(Diakrioi)と改名)が分離して、ソロンが引退すると3派が激しく争う事になった。紀元前561年に権力を掌握した僭主ペイシストラトスは、山地党の支持を受けて、中小農民の保護育成につとめ貴族に打撃を与えた。僭主を倒したクレイステネスは、紀元前508年に10部族制を創設し市民を再編して五百人会の設置とオストラキスモス(陶片追放)を採用した。