アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に定住したのは前2000年ころと推定され、紀元前1200年ころから紀元前1100年ころにかけてドーリア人の侵入をうけ周辺王国は次々と征服された。アテナイはこれを凌いで続く暗黒時代を通して王政を維持し存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではなかったためにドーリア人が攻略するだけの価値を見出せなかったからとする説もある)。このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。
アテナイは立地条件を生かしエーゲ海や黒海を中心に海上の交易を中心に商業都市として発展していく。特にソロンの改革によって経済的に活性化された所が大きく、主に陶器の輸出や穀物の輸入など様々なものが扱われていく。また、アイギナとコリントスの経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せるとこれにとって代わった。更にこの動きに拍車をかけたのはラウリウム銀山(Laurium)の存在である。その発掘の歴史は比較的後代に始まるとされるものの、ギリシア世界では殆どとれなかった銀を唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、瞬くうちにその豊富な資金力でアイギナ・コリントスに急迫してやがてギリシア最大の都市に躍り出たのである。
詳細はペルシア戦争を参照
海上交易への依存度が強かったアテナイを始めとしたギリシア諸ポリスは、小アジアにまで伸張してエーゲ海の制海権を奪おうとする大国アケメネス朝ペルシアと商業権益の対立を深めることになった。こうした中、当時アケメネス朝の影響下におかれていた小アジアにおいて、イオニア植民市の反乱が勃発した。これをアテナイが支持したことでアケメネス朝のダレイオス1世はギリシアに対して強硬策を採ることになり、ついにペルシア戦争が勃発した。これに対して、一部中立を保ったポリスもあったが多くのポリスは一致結束し、アテナイやスパルタを中心としたギリシア連合軍を結成した。そしてマラトンの戦い、サラミスの海戦、プラタイアの戦いなどでギリシア側が勝利を収め、アケメネス朝ペルシアの侵攻を撃退することに成功した。
ペルシア戦争に勝利し海上交易における覇権的地位を確立したアテナイは、ギリシア第一のポリスとなり、政治のみならず経済や文化の中心都市としても発展し、多くの人々がアテネに移り住んだ。また、前の戦争において市民による重装歩兵が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させており、直接民主制による民主政治が確立されていった。こうした状況下で、優れた政治的指導者であるペリクレス将軍のもと、アテネは繁栄を謳歌していた。
外交面では、アテナイを盟主としてイオニア地方やエーゲ海のポリスまで含んだデロス同盟と称される軍事同盟が結成された。当初はアケメネス朝の再襲に備えたものであったが、アケメネス朝の脅威が減少するにつれ、徐々にアテネが他のポリスを支配する道具になっていった。こうして出来上がった体制を「アテナイ海上帝国」と呼ぶ事もある。当初はデロス島に設置されていた金庫はアテナイに移転され、同盟の潤沢な資金をアテナイが流用して、公共事業であるパルテノン神殿建設や海軍増強などにつぎ込まれた。
ペルシア戦争によってアテナイが急激な経済発展でギリシア第一の都市国家に発展していく一方で、他のポリスは際立った戦果もなく、アテナイの一人勝ちとも思える振る舞いを苦々しく感じていた。アテナイが帝国主義的な振る舞いをするようになるとデロス同盟内のポリスから反発が起こるようになった。そして元々農業国家でペルシア戦争のもう一つの戦勝功績国スパルタは、こうしたアテナイに反対するポリスを支援して両者は激しく対立するようになった。
紀元前431年、アテナイとスパルタの間にペロポネソス戦争が開始された。陸戦に強いスパルタであったが、国内に多くの被抑圧民を抱えるスパルタには長期間の遠征が無理であったことから、指導者ペリクレスは籠城戦を選択する。陸戦を耐え抜いて得意の海戦でスパルタを圧倒する作戦であった。
紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した疫病(19世紀にはペスト説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスが死亡した後、漸次アテナイは劣勢に立たされた。大国ペルシアはアテナイのエーゲ海支配を嫌ってスパルタに海軍および軍資金を提供した。戦争は、紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。
スパルタに敗れた後のアテナイには三十人政権と呼ばれる寡頭制政権が成立し、恐怖政治を敷いた。海外領土および従属国を失ったアテナイの経済力は衰退し、またアテナイの政治は大きく乱れた。 紀元前377年、アテナイは国力を回復し再度海上同盟を結成したが、紀元前338年、カイロネイアの戦いでマケドニアのフィリッポス2世に屈服してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失って、アレクサンドロス大王とそれに続くディアドコイの帝国に編入された。ローマに支配されるようになった後は文化都市としてローマ人の尊敬を受けて栄え続けたが、6世紀のスラブ人の侵入以後は衰退し、東ローマ帝国の一地方都市となった。