目的はとりあえず、大手アーケード会社にビデオゲームを売り込むことだったが、当初は「コンピュータースペース」の権利料が僅かに入って来るだけだった。そこでピンボール会社からピンボールを買い、近所のスタンフォード大学の近くでディストリビューター(アーケードゲームを買って設置し、金を回収する業務)を始めた所、ブッシュネルが遊園地のゲームコーナーでアルバイトをしていた経験が役立ったのか、結構儲かり、アタリがすぐ潰れる心配はなくなった。
社員面ではまず3人目の社員として、ブッシュネルの娘のベビーシッターだったシンシア・ビランヌーバを、電話番兼受付嬢として雇った。次にブッシュネルが以前勤めていたテープレコーダー会社、アンペックス社の後輩、アラン・アルコーン(Allan Alcorn 通称アル)を「副社長として、技術者として雇ってやる」と誘った。アンペックスではリストラが始まっていたので、アルコーンはブッシュネルに同意してアタリに引き抜かれ、4人目の社員となった。このアルコーンに「Odessey」と似たゲーム『ポン』を作らせた所大人気となり、ここからアタリおよびアーケードビデオゲームの大躍進が始まった。
当初は時間と金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買うと言う、全くの自転車操業だった。これでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。だが『ポン』は500ドルで作り、1,200ドル即現金払いが飛ぶように売れた。この頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は200ドル以上稼いだ為、つまり三日で製造コスト、一週間で販売コストが回収できた。当時のアーケード業界は日米共にまだうさん臭いと思われ、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手だけだったが、アタリはこんな右肩上がりで、軍資金をどんどんためていった。
アタリは隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造→当時アメリカで最新設備の工場と、9ヶ月間に3回も移転、生産ラインの従業員は職安で片っ端から声をかけ、最終的には200人で毎日100台の生産能力を確保した。それでも人手不足だったため、アタリに入って来た者なら誰でも節操なくスカウトした程だった。後にスプライト機能等を生み出す技術者スティーブ・ブリストーは、ハンダづけや現金回収時のボディガードを、妻に手伝ってもらっていた。
従業員は低賃金で一日12時間、忙しい時は20時間働き、疲れた時は作っているゲームで遊んだが、何故か家に帰らない者が多かった。彼らの多数はヒッピーだったため、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた上、金に困ったヒッピーが、テレビや部品を勝手に質屋に売り払うこともあった。だがゲームが売れる度に全員にボーナスが頻繁に出るなど、羽振りは大変良かった。資本金500ドルで始まったアタリは翌年、いとも簡単に320万ドル以上の売り上げを記録し、この頃の売り上げと資本金の急成長ぶりは、アメリカの企業として未だ破られていない記録である。「ポン」以外のゲームでは1973年に『ポンダブルス』、ボールとラケットタイプ以外のゲームでは『スペースレース』を発売している。
ただ前述のダブニーはこの急成長について行けないと言い出したので、退職条件として、これまでの直営ロケ(会社が直接機械を設置する事)の権利をダブニーが、株券をブッシュネルが全て持つ事にした。こうして創立後約1年で、アタリは名実共にブッシュネルの会社となった。
1973年には効率よい販売のため、子会社のキーゲームズ(Kee Games)を立ち上げたが、約1年半で早々と吸収合併、キーゲームズ社長のキーナンをアタリの社長に据え、ブッシュネルは会長になった。以後キーナンはアルコーンと共に、ブッシュネルの腹心の片腕として活躍することになる。この他に日本支社としてアタリジャパン(初代)を作ったが、これについては左記リンクを参照。
1974年初頭には40人目の社員として、スティーブ・ジョブズが技術者として入社している。同じく1974年には初の家庭用ゲーム機として、『ポン』の家庭用版『ホーム・ポン』、1976年には『ポン』に続く大ヒット作として、ジョブズがスティーブ・ウォズニアックを関わらせたことでも知られる『ブレイクアウト』(いわゆるブロックくずし)を発表した。
Atari2600とワーナーの悲劇Atari VCS(2600)
家庭用ゲーム部門としてはAtari 2600(当初はVCSと呼ばれていたが、当稿では日本で通りがいいAtari 2600で統一して表記する)の構想を立ち上げたが、儲かっている企業とは言え多くの金がうごめく為、資金のやりくりが大変で、この頃は一歩間違えれば倒産し兼ねない危機をはらんでいた。ブッシュネルは株式公開も考えたが、結局大企業への売却で資金を安定させる方法を思いついた。ユニバーサル・スタジオで有名になるユニバーサルやディズニーに声をかけたが反応が無かった。
そこで映画会社として有名なワーナー・コミュニケーションズ(アタリを傘下にしていた時代に、タイム・ワーナーとなる)のスティーブン・ロス会長は、遊園地でアタリのゲームを見たのがきっかけでアタリと接触、ロスがたたき上げの事業家でブッシュネルと意気投合したこともあり、1976年10月に2,800万ドルでアタリを買収した(うち1,300万ドルはブッシュネルの懐に入り、億万長者となる)アタリ重役陣の役職はそのままとされた。だがブッシュネルは後に「ワーナーへの売却は失敗だった。あと二週間あれば、資金が調達できた」と語っている。サイトのあちこちに「会社に未練が無かったのか」「金が欲しかったのか」「ワーナーに売却して即引退」と言う説明がよく見られるが、これはもちろん誤りである。
1976年11月にはフリッパーピンボールにも参入しているが、これについてはピンボールを参照。
Atari 2600は1977年に発売できたが、直後からサードパーティーや競合他社の家庭用ゲーム機が撤退する等アクシデントが相次ぎ、なかなか売れなかった。そこでワーナーは繊維業界の営業畑で実績のあったレイモンド・カサールを、家庭用部門のトップとして引き抜いたが、このカサールこそが、ブッシュネルとアタリにとって疫病神とも言えた、Atari 2600とワーナーの動きに火を注いでしまった。
ブッシュネルやアルコーン達は自分たちを「アタリアン」(Atarian)と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で、楽しむ様に経営や開発を行っていた。そして新作ゲームも必ずテストプレイに加わり、意見を述べていた。ワーナー売却以前に大切な会議をする時は、ゲームで儲けたブッシュネルの豪邸で、何とジャグジー(あわ風呂)の中でやっていた程である。だがカサールを始めとするワーナーの重役陣はネクタイを締め、目的と言えば事業拡張と売り上げだけ、それもアーケードでなくAtari 2600の売れ行きだけを目標としており、もちろんテストプレイにも加わらなかった。
だがAtari 2600はまだ売れないので、ブッシュネルは前述のフリッパーと、自ら構想したAtari 2600の事業縮小・中止を提案した。だがワーナー側はロスも含めて猛反発、交渉は決裂した。そしてブッシュネルは1978年12月にアタリアンだけで重役会議をやった所、話を聞いたワーナーが激怒する。ブッシュネルは一応YesかNoかの答えを迫られた余裕もあったが、事実上ワーナーがブッシュネルを一方的に解任した。だがブッシュネルには小手先も少々仕込んでいた。ワーナーとの契約時「退職後5年間、アタリと競合する仕事をしてはいけない」等の他に「自分から辞めたら退職金をもらえないが、解任されたら受け取れる」と言う項目があり、ワーナーが解任する様仕向けたのだった。