アウシュヴィッツ強制収容所
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収容所での暮らし


選別

ドイツ統治下の各地より貨車で運ばれてきた被収容者は、オシフェンチムの貨車駅(1944年5月以降は第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)で降ろされ、「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられた。価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。到着した子供は横に寝かされた高さ120センチのバーで身長を確かめられ、そのバーを通過出来た120センチ未満の身長の子供は「生きる資格のない者」としてそのままガス室へ送られている。

ナチスの制定した法の多くがそうであったように、選別は、「法令」に比べ規範(簡単に言えばルール)のあいまいな「訓令(または通達)」を受けて遂行される。そのため規範の細部については「選別担当者」や「選別担当者が所属するグループ」の裁量に任された。「人体実験の検体として”双子”を選別する」といったような規範が、医師のヨーゼフ・メンゲレによって付け加えられたのはその一例である。ここで注意したいのは、通達などの書類に具体的な記述がないからといって「実際にそのような行為はなかった」とは言い切れないということだ。


登録収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(オシフィエンチム博物館展示)

即刻の処分を免れた被収容者は、散髪、消毒、写真撮影[15]、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行う。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約40万件とされる。私物は「選別」の段階ですべて没収されており、与えられる縦じまの囚人服が唯一の所持品である。最後に各被収容者は特定のコミュニティを形成する収容棟に送られた。

囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている(ナチ強制収容所のバッジを参照)。これは、強制収容所内にヒエラルキーが形成されていたことを意味し、労働、食事、住環境など生活のあらゆる面で影響を及ぼしたと考えられる。ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人やロマ・シンティが置かれ、下層にあればあるほど状況は過酷になり、死亡率も高くなった。心理面では、下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運をつくらせない狙いがあったと考えられる。


労働

労働は主に4つのタイプに分けることができる。ひとつ目は被収容者の肉体的消耗を目的とした労働。たとえば、石切り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」がこれに該当する。場合によっては、「午前中は穴を掘り、午後その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業を命じられることもある。懲罰部隊に組織された被収容者の多くは短期間のうちに死亡したとされる。

ふたつ目は、戦争遂行に欠かせない資材・兵器などの生産や、収容施設の維持・管理などを目的とした労働。工場労働者や各施設の拡張・管理作業などがこれに該当し、何らかの技能や知識(電気工事師、医師、化学者、建築士など)を持つ被収容者が作業にあたった。ただし、懲罰部隊での労働と比較して程度の差こそあれ、劣悪な食料事情や蔓延する伝染病などにより命を脅かされる状況にあったことに違いはない。

三つ目は、所内で死亡した被収容者の処分を目的とした労働。ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおびただしい数の遺体を、焼却炉などに運び処分する「ゾンダーコマンド(特別労務班員)」がこれに該当する。比較的待遇は良かったが、一方で口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自身も処分されたと言われている[16]

最後は、ほかの被収容者たちを監視する「カポ(労働監視員、収容所監視員などと訳される)」である。主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれることが多かったとされ、被収容者ヒエラルキーの頂点に立った。戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいた。


住環境バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所)

住環境は非常に劣悪であった。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されている。しかし、50人用の部屋を200人で使用した結果、三段ベッドの各段に二人ずつが押し込まれ、その上、掛け布団は汚れて穴だらけの毛布(これは単に粗末な薄手の麻布に過ぎない)のみであった。カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられる。

第二収容所ビルケナウは囚人の急激な増加に対応するために急遽建てられたもので、バラックと言うべき非常に粗末なつくりであった。湿地の上に基礎工事なしで建てられたため、多くのバラックには床がなく、また、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流した)。暖房は簡素なものがあったが、隙間風がいやおうなく吹き込み、その役目を果たしていなかった。排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で8人ずつが寝る三段ベッドが並べられ、マットレスのかわりに腐ったわらを敷いていた。


食事

収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる。配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約500ccの「コーヒー」と呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:殆ど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど[17]」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」[18]が多くの強制労働者に対し実施されている。この制度は劣悪であった強制労働者全体の食糧事情を改善するものではなく、戦況の悪化に伴い厳しくなった食料自給において限られた食料を生産性の高い労働者に優先して配給し、生産の全量的向上を目的としている。一般的なドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多くを配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料[19]しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされたとなれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的に起こるというのは、いかにその状況が過酷であったかを表していると言える。


医療

強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、病気・栄養失調による死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。一方、ナチスに組み込まれていた当時の ⇒ドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。


抑圧絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという(第一強制収容所)

アウシュヴィッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。一般予防としての懲罰は、圧倒的多数の被収容者に多大の心理的な抑圧を与えることを目的とし、行使以外にも見せしめによる擬似的な体験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布などにより、被収容者をコントロールする要となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen