強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、病気・栄養失調による死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。一方、ナチスに組み込まれていた当時の ⇒ドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。
抑圧絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという(第一強制収容所)
アウシュヴィッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。一般予防としての懲罰は、圧倒的多数の被収容者に多大の心理的な抑圧を与えることを目的とし、行使以外にも見せしめによる擬似的な体験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布などにより、被収容者をコントロールする要となった。一方で、先に触れた「口封じのためにゾンダーコマンドが"数ヵ月おき”に処分される」ことは、これが事実であれば、人種主義的な抑圧も併せることによって発生した「多すぎる死」を被収容者に隠すための処置であり、つまり懲罰はむやみやたらというよりも、被収容者のコントロールと人種主義的な抑圧のバランスの中で計画的に遂行されていたと見ることができる。「絶滅工場」などと隠喩されるのは、つくりだされた死の量的な多さだけでなく、このような「計画的な性質の介在」にも由来すると言えるだろう。
懲罰は「鞭打ち」「後ろ手に縛り体を杭に吊るす」「特別監房への移送」「過重労働(懲罰隊への入隊)」「懲罰点呼」などが挙げられる。いずれも激しい飢餓に苦しむ被収容者にとっては死を意味するものであったと言える。たとえば、90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」[20]は、体力を確実に消耗させ、死に至らしめる。永続的に続くかのような苦痛と絶望が介在する懲罰の存在は、被収容者たちに計り知れない恐怖を与えたと考えられる。また「銃殺刑」や「絞首刑」[21]は、具体的な死の姿を瞬間的に見せつけ、しばしば所内にとどろく銃声は直接これを見ずとも緊張と忘れがたい恐怖を植えつけるのに十分であったと言える。絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという。
抑圧の一方で、被収容者による「オーケストラ」が組織されていたことも事実である。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、多くを奪われ、失意のうちにアウシュヴィッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺まんであったと言える。奏者は特別な待遇を受けることができたが(アルマ・ロゼに概要)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。
戦後、被収容者としての経験を持つ精神科医たちは、自らの抑圧体験を研究し精神分析学の発展に貢献した。たとえば、精神科医ヴィクトール・フランクルは、実体験を記した著書「夜と霧」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し実存主義的アプローチを採る「ロゴセラピー」を新たに提唱した。皮肉なことだが、これがアウシュヴィッツにおける唯一の「功」の部分であったと言えるかもしれない。
大量殺害のための施設(ガス室)ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉チクロンBの缶(オシフィエンチム博物館展示)
人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域のドイツ化を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したナチスは、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げ)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「ヴァンゼー会議」が開かれた。しかし、戦況の悪化により移送や移送先の確保が難しいなど計画が行き詰まりを見せ始めると、「 ⇒特別措置14f13」[22]に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。ダッハウ強制収容所の排気ガスを使った一酸化炭素による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。
アウシュヴィッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的な殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。最初のガス施設(クレマトリウム1)は1941年頃に第一強制収容所につくられ、実験をかねてまず約800人のソ連兵捕虜・ポーランド人が送られた。後に第二強制収容所に4つのガス施設(クレマトリウム2?5)[23]が1943年3月?6月にかけて、さらに農家を改造した2つのガス施設(赤い家、白い家)[24]の計7施設がつくられたとされる(第一強制収容所のガス室は、後に強制収容所管理のための施設に改造したとされる)。使用されたガスは「チクロンB」であった。このガスは防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用された。囚人の殺害においては少ないガスで多くを殺せるように研究班も設置されており、32分で800名を殺せるように効率化が図られていた。死体は、ガス施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分されたと言われている。作業にはゾンダーコマンドがあたった。焼却された死体の骨は砕かれてビスチュラ河に捨てられており、現在ではそこに記念碑が立てられている。
これらの施設は、1944年10月に起きたゾンダーコマンドの反抗による破壊(クレマトリウム4)、ソ連軍の接近を察知したSSによる破壊が原因で、現在当時のままの形をとどめているものはない。オシフィエンチム博物館で閲覧できるクレマトリウム1は復元されたものである。
⇒ナチスの医師たちは、被収容者をさまざまな実験の検体として使った。いわゆる「人体実験」である。 ⇒エルンスト・グラヴィッツ、 ⇒カール・ゲップハルト、 ⇒ホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅研究のために男女の断種実験、ヨーゼフ・メンゲレは双子や身体障害者、精神障害者を使った遺伝学や人類学の研究を行ったとされる。ほかにも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験が行われた。実験で命を落としたものは数百人に及び、生き残った人々にも障害が残った。
戦後、同様に人体実験を行った日本の731部隊がアメリカに研究成果を引き渡したことで罪を不問とされたのに対し[25]、ニュルンベルク裁判などはこれらの行為を医療犯罪として裁いた( ⇒医療裁判に概要)。