アウシュヴィッツ強制収容所
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住環境バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所)

住環境は非常に劣悪であった。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されている。しかし、50人用の部屋を200人で使用した結果、三段ベッドの各段に二人ずつが押し込まれ、その上、掛け布団は汚れて穴だらけの毛布のみであった(カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられる)。

第二収容所ビルケナウは囚人の急激な増加に対応するために急遽建てられたもので、バラックと言うべき非常に粗末なつくりであった。湿地の上に基礎工事なしで建てられたため、多くのバラックには床がなく、また、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流した)。暖房は簡素なものがあったが、隙間風がいやおうなく吹き込み、その役目を果たしていなかった。排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で8人ずつが寝る三段ベッドが並べられ、マットレスのかわりに腐ったわらを敷いていた。


食事

収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる。配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:殆ど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど[17]」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」[18]が多くの強制労働者に対し実施されている。この制度は劣悪であった強制労働者全体の食糧事情を改善するものではなく、戦況の悪化に伴い厳しくなった食料自給において限られた食料を生産性の高い労働者に優先して配給し、生産の全量的向上を目的としている。一般的なドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多くを配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料[19]しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされたとなれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的に起こるというのは、いかにその状況が過酷であったかを表していると言える。


医療

強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、病気・栄養失調による死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。一方、ナチスに組み込まれていた当時の ⇒ドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。


抑圧絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという(第一強制収容所)

アウシュビッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。一般予防としての懲罰は、圧倒的多数の被収容者に多大の心理的な抑圧を与えることを目的とし、行使以外にも見せしめによる擬似的な体験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布などにより、被収容者をコントロールする要となった。一方で、先に触れた「口封じのためにゾンダーコマンドが"数ヵ月おき”に処分される」ことは、これが事実であれば、人種主義的な抑圧も併せることによって発生した「多すぎる死」を被収容者に隠すための処置であり、つまり懲罰はむやみやたらというよりも、被収容者のコントロールと人種主義的な抑圧のバランスの中で計画的に遂行されていたと見ることができる。「絶滅工場」などと隠喩されるのは、つくりだされた死の量的な多さだけでなく、このような「計画的な性質の介在」にも由来すると言えるだろう。

懲罰は「鞭打ち」「後ろ手に縛り体を杭に吊るす」「特別監房への移送」「過重労働(懲罰隊への入隊)」「懲罰点呼」などが挙げられる。いずれも激しい飢餓に苦しむ被収容者にとっては死を意味するものであったと言える。たとえば、90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」[20]は、体力を確実に消耗させ、死に至らしめる。永続的に続くかのような苦痛と絶望が介在する懲罰の存在は、被収容者たちに計り知れない恐怖を与えたと考えられる。また「銃殺刑」や「絞首刑」[21]は、具体的な死の姿を瞬間的に見せつけ、しばしば所内にとどろく銃声は直接これを見ずとも緊張と忘れがたい恐怖を植えつけるのに十分であったと言える。絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという。

抑圧の一方で、被収容者による「オーケストラ」が組織されていたことも事実である。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、多くを奪われ、失意のうちにアウシュビッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺まんであったと言える。奏者は特別な待遇を受けることができたが(アルマ・ロゼに概要)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。

戦後、被収容者としての経験を持つ精神科医たちは、自らの抑圧体験を研究し精神分析学の発展に貢献した。たとえば、精神科医ヴィクトール・フランクルは、実体験を記した著書「夜と霧」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し実存主義的アプローチを採る「ロゴセラピー」を新たに提唱した。皮肉なことだが、アウシュビッツの功罪で唯一の功の部分であったと言えるかもしれない。


大量殺害のための施設(ガス室)ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉チクロンBの缶(オシフィエンチム博物館展示)

人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域のドイツ化を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したナチスは、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げた)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「ヴァンゼー会議」が開かれた。しかし、戦況の悪化により移送や移送先の確保が難しいなど計画が行き詰まりを見せ始めると、「 ⇒特別措置14f13[22]に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。ダッハウ強制収容所の排気ガスを使った一酸化炭素による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki