1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドワード元公爵が総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校 ⇒エルンスト・ローベルト・グラーヴィッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改変を経て決定的となる。赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える[30]( ⇒DRKの詳細な徽章はこちら)。
1945年4月、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場になるなか、家族を巻き添えにして手榴弾で自殺。カール・エドワードは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけででなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。
1944年暮れ頃、ソ連軍の接近に伴い強制収容所および強制労働者の扱いが問題となる。11月には、SSの一部局である「人種・移民局」が「強制労働者を管理組織が独自の判断で処刑するように」との通達を出している。これを受けて産業界は、自らの手を汚すまいと強制労働者をSSに返還することを取り決めており、SS、産業界双方に「解放」という姿勢は見うけられない。
アウシュヴィッツの被収容者は、なおも活動を続けるドイツ本国の強制収容所に移送されるか、または処刑されるかのいずれかであった。実際は約7,500名が1945年1月27日の解放時にとどまっており、これはソ連軍の急速な接近による混乱、一部証言にある「ドイツへ行くか残るか選ぶことができた」といったような処置[31]、さらには処刑や移送が間に合わなかったなどの可能性が考えられる。移送された被収容者は合計で60,000人に上るとされるが、移送途中にも多くが命を落としている。移送で生き残った者は、別の強制収容所に入れられるだけのことで、実際の解放までに数ヵ月間待たなければならなかった。[32][33]
人間の特性を探る研究に、アウシュヴィッツという過酷な状況のなかで「愛」「美」「夢」のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある。以下は、その研究を紹介した佐久間章行著『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』p.218-219からの引用。第二次大戦の勝利者である連合軍は、あの過酷なアウシュビッツの環境で最後まで生を維持させた人間の特性に興味を抱き調査団を組織した。その報告が正確であるならば、生命の維持力と身体的な強靭さの間には何の関係も見出せなかった。そして生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された。第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した。アウシュビッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した。第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した。鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した。第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した。戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した。
現在のアウシュヴィッツ慰霊の碑文。この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収容所)
多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人の教皇として耐え難いことだ」と述べた。年間を通じてイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。
ヒトラー政権下のドイツで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、他の西側連合諸国のアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。その為に、死亡者数については色々な説があるが、近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にある、と言われている。
例えば、戦勝国の連合国が敗戦国ドイツを裁いた有名なニュルンベルク裁判では、400万が死亡したと認定した。だが1990年以降、その判決は公式に否定されており、現在の公式的な死亡者数は150万とされている。 その150万人の説以外にも、多くの研究家や学者(ラウル・ヒルバーグといったユダヤ系の学者を含む)が様々な異論を述べている。 その主な意見の推移を年代順に並べてみた。
<<年代順>>
<800万人説>(1945)
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる。
<500万から550万人説>(1945)
Bernard Czardybon による。何名かのSS隊員の自白。『ル・モンド』紙による。
<400万人説>(1945)
ニュルンベルク裁判が「顕著な事実」としたソ連側資料による。この数字は、1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記念碑に刻まれて、多くの人々によって信じられてきた。
しかし、現在では虚偽であるとされ、1995年にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記念碑は150万人と置き換えられた。
<300万人説>(1946)
初代アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスの尋問による自白。
「私は1943年12月1日までアウシュヴィッツの所長を務め、少なくとも250万人の犠牲者がガス処刑や焼却によって処刑・絶滅され、少なくとも50万人が飢えや疫病で死亡したと推定する。死者の合計は300万人である。」(1946年4月5日、ニュルンベルクの監獄で供述書に署名)
現在では、ヘスは尋問中に暴行や拷問を受けた可能性など、取調べの問題点が指摘されており、300万というヘスの証言は信憑性がない、とされており、現在ヘスの証言の300万説を支持する歴史学者・研究者は居ない。
<80万人から90万人説>(1953)
歴史家 ⇒Gerald Reitlinger による。
<900万人説>(1955)
フランスで作製されたドキュメンタリー夜と霧 (映画)による。
<125万人説>(1985)
100万人のユダヤ人が殺され、25万以上の非ユダヤ人が死亡した。ホロコースト研究の第一人者と言われるユダヤ系の歴史家ラウル・ヒルバーグ ( ⇒Raul Hilberg)による。