「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。
機関車の交換省略
1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅〜国府津駅間が電化されており、従来は特急・急行列車でも電気機関車と蒸気機関車を国府津駅で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅〜名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西はC53形蒸気機関車が牽引)。国府津〜名古屋間では既に「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク配置不良のため起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来型で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅〜沼津駅間は電気機関車牽引、沼津駅以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津駅で機関車を交換するようになった。
給水停車の省略
蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車ミキ20形を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」という奇天烈なものもあった。もちろん、実用化はされていない。鉄道先進国のイギリスでは「フライング・スコッツマン」などで線路の間に水槽(ウォータートラフ)を設けそこから走行中に炭水車から樋を下げて水を汲み上げる機構が実用化されていたが、設備投資やスケジュールの都合上これが不可能であったことからこれらのアイディアを考案せざるを得なかった。
補助機関車の連結・解放迅速化
運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場経由であり、1000分の25勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津駅から、上り列車は沼津駅から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補助機関車の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更で解消されている。なお当初は走行中に補機を連結する案もあり、実際に試験も行われたが、好成績は収めたものの実用化には至らなかった。また東海道本線には、大垣駅〜関ヶ原駅間にも、同様の急勾配である、1000分の25勾配が存在していた。この区間では、下り列車に限り大垣駅から補助機関車を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津・沼津駅同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。ちなみに走行中の補機解放は当時からさほど難しい技術ではなかったと見られ、同区間を走る多くの列車や他の勾配線区でも実施されていた。しかし、他の列車は推進力確保のため、トルクの強い貨物用の9600形またはD50形を補機に使用していたのに対し、「燕」は高速運転の可能なC53形が担当し、異例となった。なお、起動不良は本務機のC51形が引き上げれば問題なしとされた。(なお、D50形を補機に使用した例もある)この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津駅から名古屋駅まで、上りは名古屋駅から沼津駅までノンストップとなった。
運転中の乗務員交代
ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士と機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車・炭水車をよじ登って、前任の機関士・機関助士と交替したという。事故は無かったというが、さすがにこの交替は危険きわまりなく、1932年(昭和7年)3月以降は静岡駅での給水停車に合わせて乗務員交代も行うようになった。なお現在では安全上、この様な走行中に車外に出て交替する方法は禁止されている。
阪急京都本線の前身である(新京阪鉄道→)京阪新京阪線で使用されていた大型大出力電車のデイ100形には、1930年代に山崎付近の東海道本線との並行区間で併走する「燕」を追い抜いたという逸話が残る。
その真偽や背景については、こちらの項目を参照のこと。
昭和5年(1930年)11月14日、時の首相濱口雄幸は広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇の行幸に付き添い(更にお国帰りも兼ねて)特急「燕」に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で当時21歳の愛国社社員佐郷屋留雄(さごやとめお)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。
翌昭和6年(1931年)3月に、野党政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。
中国における日本の国策会社であった南満州鉄道(満鉄)は1932年(昭和7年)、大連〜長春(満州国成立に伴い首都となり、同年“新京”に改名)間を運行していた急行列車に「はと」と命名した。
当初は満鉄を代表する優等列車であったが、1934年(昭和9年)11月により高速で高級な設備を備えた特急「あじあ」が登場し、代表列車の座は明け渡した。しかしその後も速度向上は行われ、1939年(昭和14年)11月時点では大連〜新京間を10時間20分、表定速度68.4km/hで運行された。
その後の第二次世界大戦下における戦況の悪化により、1943年(昭和18年)2月に「あじあ」が廃止され、「はと」も速度低下する。しかし「はと」は、1945年(昭和20年)8月のソ連軍による満州侵攻時まで運行を継続した。