さいたま市
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浦和と大宮の関係

さいたま市は浦和と大宮というほぼ同規模の都市の合併を伴って誕生した経緯もあり、しばしば旧市間の軋轢が指摘される。これに関連して、いくつかの点についてまとめる。


埼玉県庁の位置に関して

埼玉県では、明治維新以降度々県庁の位置をめぐる綱引きが行われており、その多くに浦和大宮が関わってきた。1869年以降県庁が置かれる浦和、交通の要衝である大宮、旧城下町であり一時は埼玉県庁の設置が予定されていた岩槻と、県庁をめぐる様々な動きの渦中にあった三つの街が、一つの大都市となる珍しい経緯を持つことになった。

1869年(明治2年) - 1月、大宮県が誕生。名目上の県庁所在地は大宮宿であったが、実質的な県庁機能は殆どなかった。9月、浦和住民の土地の提供や川口住民の請願により、県庁は浦和宿に置かれることとなり(設置は翌10月)、県名も浦和県に改称。

1871年(明治4年) - 7月、廃藩置県により岩槻藩が岩槻県になる。11月、岩槻・浦和・忍の3県が合併して、埼玉県が誕生。太政官は県庁を岩槻町におくよう達したが、県令野村盛秀の巡視の結果、当分の間旧浦和県庁で執務が行われることとなる。

1876年(明治9年) - 8月、熊谷県のうち旧入間県部分と埼玉県が合併、現在の埼玉県の領域がほぼ確定する。この際、県庁所在地は浦和宿となった。

1886年(明治19年) - 1884年(明治17年)の秩父事件への対応の遅れなどから県庁所在地の偏りの弊害が指摘され、熊谷町への移転運動が浮上。しかし熊谷に支庁を設置することで対応し、県庁は浦和に残る。

1890年(明治23年) - 9月25日勅令により、正式に浦和町が県庁所在地となる。

1897年(明治30年) - 12月15日、埼玉県議会が熊谷町への移転建議を可決。しかし、翌1898年(明治31年)1月27日内務省より「不可」との通知が下る。

1948年(昭和23年) - 10月25日、放火により県庁の大部分が焼失すると、その後3日のうちに大宮、熊谷が県庁の誘致に乗り出し、浦和、大宮、熊谷3市の激しい誘致合戦となる。

1950年(昭和25年) - 県庁復興対策特別委員会における浦和と大宮の決選投票の結果、県庁の浦和市残留が決定。


鉄道駅に関して

県庁、および県内の主要な教育施設が設置されてきた浦和は数多くの行政施設、文化施設が設置され「県都」、「文教都市」として発展してきた。一方、新幹線など多くの鉄道の結節点となっている大宮駅を擁する大宮は、交通の要衝であるほか、埼玉県有数の経済都市として発展した。なお2006年度のJR大宮駅の1日平均乗車人員は233,719人でこれは、JR東日本では新宿・池袋・渋谷・横浜・東京・品川・新橋に次ぎ8位である。

1883年(明治16年) - 8月、日本鉄道により現在の東北本線及び高崎線の一部、上野?熊谷間の鉄道が開通。県庁所在地である浦和に駅が設置される。大宮には駅が設置されなかった。

1885年(明治18年) - 3月、大宮に駅が設置される。7月、現在の東北本線の大宮?栗橋間の鉄道が開通。建設にあたり鉄道の分岐点としてさまざまな案が出されその中で浦和、大宮はともに候補として挙げられていた。しかし大宮住民の土地の提供などの誘致運動や鉄道が浦和分岐となることで分岐した北側で経由することになる岩槻の住民による鉄道反対運動(これについては鉄道忌避伝説によるものとの疑いも否定できない)、アメリカ人技師のクロフォードによる大宮案の支持などにより、分岐点案は最終的に大宮と桐生・足利などの機業家の支持を受けた熊谷の2案で争われ、コスト面から大宮に決定した。

1894年(明治27年) - 大宮駅に鉄道工場が併設される。


過去の合併構想

第二次世界大戦前から浦和と大宮の合併(官選の宮脇梅吉知事による「大埼玉市構想」など)や蕨、川口などを巻き込んださらに大きな規模が構想されたこともあったが実現されることは無かった。

1927年(昭和2年) - 宮脇梅吉が埼玉県知事に就任。浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏構想を打ち出す。当時、埼玉県内で市制を施行したのは川越市だけであった。

1931年(昭和6年) - 宮脇梅吉が再び埼玉県知事に就任。日進を加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」として打ち出す。

1933年(昭和8年) - 熊谷川口が相次いで市制を施行。合併論が再燃する。

1934年(昭和9年) - これを受けて、「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団で、現・さいたま市水道局)が設立。後の合併の礎となる。

1939年(昭和14年) - 浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和・与野との一市二町での合併案で対抗する。

1940年(昭和15年) - 埼玉県が仲裁に入り、大宮案での合併交渉に入る。六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意。しかし、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなる。

1942年(昭和17年) - 与野町で大宮市への合併運動が起きる。

1943年(昭和18年) - これを受けて、埼玉県知事の大津敏男は浦和・大宮・与野との二市一町での合併構想を打ち出す。

1954年(昭和29年) - 埼玉県が、いわゆる「昭和の大合併」の合併試案で、二市一町と大久保・土合の二村を加えての合併試案が示される。またもや、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなる。

1962年(昭和37年) - 浦和市議会が、三市と川口・蕨での五市合併を呼びかけ。第一段階で三市、第二段階で川口・蕨との合併をすると言うものだった。

1973年(昭和48年) - 三市の市長が合併に関して初会談。また、北九州市の合併推進派の理論的支柱となった、都市社会学者の磯村英一が、三市について「合併しなければ、背を向け続けるであろう」と警告。


さいたま市役所の位置に関して

旧浦和、大宮、与野市の中間にさいたま新都心が建設されてからは、さいたま新都心が浦和・大宮両都心に次ぐ「第三極」となっている。このことから大宮市は合併時に、新市の名称を「大宮市」とする主張を取り下げるかわりに新市庁舎のさいたま新都心への建設を主張したが、結局「さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、将来の新市の事務所の位置についての検討や庁舎建設基金を創設を行う」という玉虫色の妥結がとられている(#名称問題を参照)。また合併した三市の他にYOU And I(与野・大宮・浦和・上尾・伊奈から頭文字が取られている)構想に組み込まれていた上尾市と伊奈町も合併すると新市の地理的中心は旧大宮市となることから、大宮市議会は上尾市の合併離脱を取り下げるよう説得を行っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki