黒田清隆
(くろだ きよたか)
第2 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間1888年4月30日
- 1889年10月25日
生年月日1840年11月9日
(天保11年10月16日)
出生地薩摩藩
出身校−
学位・資格・称号陸軍中将
従一位大勲位菊花大綬章伯爵
前職農商務大臣
世襲の有無−
選挙区−
当選回数−
党派−
没年月日1900年(明治33年)8月23日
黒田 清隆(くろだ きよたか、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家。
通称は仲太郎、了介。第2代内閣総理大臣(在職 1888年4月 - 1889年10月)。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。元老。
目次
1 主な事績
2 生涯
2.1 生い立ちと幕末の活動
2.2 戊辰戦争
2.3 開拓使
2.4 外交と西南戦争
2.5 薩閥の重鎮
2.6 晩年
3 参考文献
4 黒田清隆を扱った作品
5 関連項目
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薩摩藩の藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、1868年から1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、1876年に日朝修好条規を締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年 (1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。
天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。
長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人としていあわせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。
文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。榎本武揚助命嘆願の為に剃髪した清隆(左)
慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督高倉永?の参謀に、山縣有朋とともに任命された。北越戦争に際して、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山縣に官軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、官軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。