黄紹?(こう しょうこう、簡体字:黄??、繁体字:?紹?、ピン音:Hu?ng Sh?oh?ng、1895年 ? 1966年8月31日)は、中国の中華民国時代の軍人、政治家。号は季寛。広西省容県出身。国民革命軍の将軍であると同時に、桂軍(広西軍、広西軍閥)、特に「新桂系」と呼ばれる集団の指導者の1人であった。
1911年の革命後、黄紹?は白崇禧及び李宗仁とともに桂林の広西省陸軍学校で学ぶ。後に彼は機関銃を装備し近代的軍隊のモデルであった大隊の指揮を執るようになった。
広東と広西( ⇒en)の戦いに続く混乱した権力争いにおいて、地元の軍人は、広西の領土の分割支配を始めた。南西部には、雲南と貴州からのアヘンの流通路があり、それは百色を通り、川を下って南寧に至る。アヘンは通常そこから梧州に渡り、そこで取引されてから出荷された。
広東と広西の戦いの期間、モデル大隊の司令官であった黄紹?は中立に努め、北西方向に大きく離れた百色に移動した。黄紹?は徐々に百色とともにアヘン取引の支配を始めた。後に、彼は彼の支配地域を梧州まで拡大し、広西におけるアヘン出入りの要地を確保した。1924年の春までに、新桂系が成立し、広西の軍が設置される。李宗仁が最高司令官、黄紹?が副司令官、白崇禧が参謀長であった。8月までに彼等はそれまでの支配者陸栄廷や他の対立する者達を破り、その省から追い払い、1924年から1929年の間、黄紹?は広西の民政長官に就いた。彼は、1927年以後、蒋介石の国民政府の内政および運輸大臣でもあった。
後に彼は1934年から1935年まで浙江省、1936年からの1937年まで湖北省の政府議長を務めた。1937年から1946年までは、再度浙江省の政府議長、及び国民革命軍第十五軍の司令官であった。第二次世界大戦の間、黄紹?は第二戦区の副司令官に任じられていた。大戦後、彼は監察委員会の長官に任命され、立法院(議会)委員に選出される。
中国の国共内戦の中で1949年3月和平会議が行われ、黄紹?は国民党代表団の一員であった。彼と張治中は、共産党によって提出された停戦条件を受け入れることに合意した。国民党の指導部は後に、それを拒否し、黄紹?は香港に逃れ、国民党への反旗を宣言し、1949年9月、中国人民政治協商会議に参加した。
中華人民共和国設立後、黄紹?は政務院(後の国務院)政務委員、全国人民代表大会代表、中国人民政治協商会議全国委員会委員に選ばれた。彼は、中国国民党革命委員会(民革)常任委員会のメンバーでもあった。文化大革命の時期になると彼は”右派”と決め付けられた。耐え難い紅衛兵の迫害を受け、1966年8月31日、北京市の自宅で自殺した。享年72。文化大革命後に四人組が失脚すると、名誉は回復され、1982年12月、北京で民革による追悼会が開催された。
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参考資料
⇒Huang Shaohong (写真付)
⇒(rulers of) Administrative Divisions, China
⇒THE ZHUANG AND THE 1911 REVOLUTION
范銀飛他「黄紹?」『民国高級将領列伝 4』解放軍出版社、1999年
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更新日時:2008年7月21日(月)11:06
取得日時:2008/08/18 01:17