鹿野 道彦(かの みちひこ、1942年1月24日 ‐ )は、日本の政治家。前衆議院議員(10期)。
農林水産大臣、総務庁長官、新党みらい代表、国民の声代表、民主党副代表などを歴任した。
前衆議院議員 鹿野 道彦
生年月日1942年1月24日
出生地山形県山形市
出身校学習院大学
学位・資格政治学士
前職衆議院議員
所属委員会
内閣役職‐
世襲2世
父・鹿野彦吉(衆議院議員)
選出選挙区山形1区
当選回数10回
所属党派民主党
党役職山形県総支部連合会最高顧問
会館部屋番号‐
⇒前衆議院議員・鹿野道彦
目次
1 概要
2 文献
2.1 著書
3 関連項目
4 脚注
5 外部リンク
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山形市に鹿野彦吉の二男として生まれた。昭和40年(1965年)学習院大学政治学科を卒業した。
父親の秘書を経て、1976年第34回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、当選した。党内では福田赳夫率いる清和会に所属した。1980年衆議院議事進行係に就任。1981年運輸政務次官、1986年衆議院運輸委員長を歴任し、運輸族としてキャリアを重ねた。平成元年(1989年)海部内閣の農林水産大臣として初入閣した。農水相としては、GATTのウルグアイ・ラウンドや、日米貿易紛争の一つであった、牛肉オレンジなどの農産物輸入自由化問題に対応を余儀なくされ、農水省を代表して食糧安全保障論を展開した。海部内閣では、自由民主党政治改革本部の政治倫理委員長に就任し、この頃から政治改革推進派の立場を取った。1992年宮沢改造内閣の総務庁長官として入閣した。安倍晋太郎の死後、派閥領袖となった三塚博は、政調会長として党政策責任者としての立場をフルに生かそうと考えていたことから、鹿野も総務庁長官として許認可権の削減や規制緩和に取り組んだ。懸案として浮上してきた政治改革については、推進派としての立場から海部前首相を会長とする政治改革推進議員連盟のメンバーとして政治改革の成立を図るが、1993年宮沢内閣不信任案が成立して頓挫した。この段階では、派閥領袖である三塚への配慮もあって、鹿野は不信任案賛成や離党の行動は取らなかったが、次第に自民党執行部への批判を強く持つようになった。
1994年細川内閣総辞職に伴い、北川正恭らと離党し新党みらいを結成し代表となった。同年12月に新進党結党に参加。新進党明日の内閣では外務大臣を務め、外交政策で現実的な対案を政府に対して出すなどマスコミの一部に評価された。当初は、小沢一郎のリーダーシップに期待し、小沢党首実現に推薦人の一人として動いたが、後に離反した。1997年に行われた新進党党首選挙では、反小沢派の旗手として立候補し、当選はしなかったものの、善戦した。党首選挙後、鹿野は小沢の腕を取って選挙後の団結をアピールするが、それも虚しく、小沢が純化路線に走り、新進党は解党した。1998年新進党内の反小沢系保守系議員を集め、国民の声を結成、代表となった。さらに保守系の諸派と民政党を結成。幹事長に就任し、代表の羽田孜を補佐した。同年4月27日、民政党は民主党に合流した。民主党では副代表、常任幹事会議長などを歴任するが、秘書給与の流用事件の責任を取り、2002年2月に民主党を離党した。その後、復党するが、第43回衆議院議員総選挙では小選挙区で落選した(比例区で復活当選し議席は保った)。2005年9月11日第44回衆議院議員総選挙では小選挙区で落選、比例区でも復活当選できず、議席を失った。
消費者金融業界の政治団体である「全国貸金業政治連盟」(全政連)から政治献金を受けていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で伝えられた[1]。
著書
『明日を翔る男たち : 闘う自民党青年部』愛山政経調査会、1982年7月
『農の復権 : 21世紀農林水産業の活力を求めて』翠嵐社、1991年10月
『山形新幹線 : 鉄路の復権』翠嵐社、1992年6月
関連項目
民主党国会議員一覧
第1次海部内閣
自由民主党
新党みらい、新進党
国民の声、民政党
外部リンク
⇒前衆議院議員・鹿野道彦(公式サイト)
⇒民主党山形県総支部連合会